<被害者参加制度>

pressココロ上




「裁判が仕返しの場になってはいけないよなぁ」
 僕はテレビを見ながらつぶやいてしまいました。映像では、裁判で被害者の遺族が加害者に問い詰めるシーンが流れていました。加害者はトラックの運転手、被害者はオートバイに乗っていたようです。交差点での事故です。
 僕はこのニュースを見るまで知らなかったのですが、昨年12月から裁判で<被害者参加制度>というものがはじまったそうです。それまでは、被害者は傍聴席で検察官と弁護士のやりとりを見守るしかできなかったのが、この制度により被害者やその遺族が検察官の隣に座り意見や質問を言うことができるようになったようでした。
 この映像を見て、僕が思い浮かべたのが「薬害エイズ」が世間を騒がせていた頃の映像です。この事件は、血友病患者に投与されていた血液製剤にエイズウィルスが混入されていたためにエイズに感染した人が数多く発生した事件です。このとき血液製剤を製造していたミドリ十字という会社の幹部に、エイズに感染させられた患者の方々が詰め寄るシーンが放映されました。
 患者のひとりの方が感情を爆発させ「土下座しろ!」と迫ると、60才を越えたと思われる幹部の方々が全員、患者の方々の前まで進み、頭を床に擦りつけるようにして土下座をしていました。僕は、この映像を見て、なんとも言いようのない暗い気持ちになりました。
 ……。
 交差点での事故です。そして、その交通事故は誰にでも起き得ることです。ちょっとした気の緩みや不注意で誰でもが加害者になってしまいます。僕は以前保険の仕事をしていましたが、その経験から言いますと、人間は事故を起こしたとき誰でも「自分を正当化」しようとします。誰でもが「自分を被害者」と思いたがります。過失割合という言葉がありますが、動いている車同士が衝突した場合、過失割合が片方がゼロになることはほとんどありません。そのような交通事故の実態の中で、被害者が裁判に参加することは適当ではないように思います。
 過失割合に関係なく、親族を失った方が加害者に対して恨み心を持つのは当然です。そのような心境の被害者が裁判に参加することは裁判の公平性において疑問を感じます。
 僕は、思います。裁判とは真実を見極めることが第一義ではないでしょうか。そして真実を見極めるには冷静な対応が必須です。感情に支配された裁判では真実が見えなくなってしまいます。
 例えば、被害者の遺族が感情のままに加害者に質問をしたとき、加害者は遺族の意に沿わない返答など容易にできるものではありません。つまり加害者は真実を語ることができなくなる可能性があります。仮に、加害者自身にとっては真実と考える返答をし、その返答が遺族の意に沿わないとき、遺族の方は間違いなく憤り、ときには悲嘆にくれます。そうした姿が裁判官や裁判員に加害者への悪印象を与えることになってしまいかねません。
 裁判は公平でなければなりません。
 このように書きながら僕は、光市妻子殺害事件の本村氏とオウム真理教事件の河野氏のお二人を思い浮かべていました。
 今回のニュースで、犯罪被害者の会の代表である岡村氏がコメントを述べていました。もちろん、この制度を歓迎している内容でした。岡村氏は元日弁連の幹部の方ですが、奥様を暴漢に襲われるという体験をしてから「被害者がないがしろにされている」実状を知り、そして憤りこの会を発足させた方です。本村氏はこの会の幹部に名を連ねています。
 基本的に、この会は被害者側が裁判に直接関わることを主張しています。<被害者参加制度>ができるまで、被害者側は加害者に対して自分たちの怒りや悲しみの気持ちを訴えることができませんでした。この制度により遺族の方の無念な気持ちを直接加害者にぶつけることができるようになったのです。
 本村氏の裁判時にもこの制度があったなら、怒りや憎しみの気持ちを直接加害者にぶつけることができ少しばかりでも気分が治まったかもしれません。僕には、本村氏が最後まで加害者を憎み続けていた印象が残っています。
 対して河野氏。
 昨年11月から12月にかけて、河野氏をテレビで見かける回数が多かったように思います。オウム事件以来、意識が戻らずにいた奥様がお亡くなりになったからです。テレビで取り上げられた理由は、河野氏の自宅を刑期を終えた加害者のひとりが定期的に訪問していたからです。僕は、その加害者が河野氏宅を訪れる映像を幾つかの番組で見ました。映像では、河野氏は加害者である男性を暖かく迎えていました。河野氏はインタビューで答えています。
「いつまでも憎しみを抱えていてもなんの生産性もない」
 正確な文言は忘れてしまいましたが、このような内容の話をしていたように思います。つまり、加害者を許していました。
 僕は当事者ではありませんので、どちらの対応が正しいかを判断する資格はありません。ただ、「憎しみが憎しみを呼ぶ」のは間違いないように思います。先日も報道されましたが、イスラエルとパレスチナの争いは「憎しみが憎しみを呼ぶ」典型的な例だと思います。こうした例はイスラエルとパレスチナに限りません。元ユーゴスラビアでも同様な争いが起きています。民族紛争と言われる争いは全てが「憎しみが憎しみを呼んだ」結果であると言っても過言ではないでしょう。根本的な原因は過去の憎しみです。憎しみを持ち続けることはいつまでも争いが終わらないことを誓っているようなものです。争いや戦争をなくすには憎しみから離れることが第一歩ではないでしょうか。
 <被害者参加制度>は憎しみを持ち続けることにつながるような気がします。憎しみから離れる一番の方法は「忘れること」です。その意味からも裁判に被害者が直接関わる制度には賛成できない気持ちが強くなってしまいます。
 許すのが大切。僕は、こんなことを書いていますが、いざ、自分が当事者になったならどう行動するかわかりません。こんな偉そうなことを書けるのも当事者でないからかもしれません。けれど、この当事者でないことが重要であるような気がします。当事者であったなら冷静な考えになれないからです。当事者でないが故の考えのほうが正しい可能性が高いような気がします。
 ところで…。
 本文中に書きました弁護士の岡村さんや、今週の本のコーナーで紹介していますゴールドサックスのキャシーさん。どちらも人生において大きな出来事があって初めてそれぞれ考えを改めています。岡村さんは奥様を暴漢に襲われて「初めて被害者の気持ちを理解できた」と言っていますし、キャシーさんは大病をなさって「初めてお金より大切なものがある」とわかったと言っています。
 このような話を聞いたり見たりするたびに感じるのですが、そうしたきっかけがあるまでどうしてわからなかったのでしょう。これでは、世の中の全ての人がこのように改める気持ちになるためたには、全ての人が同じような体験をする必要があることになってしまいます。
 しかし、それは現実的ではありません。そこで僕は思うのです。大切なのは、想像力です。自分以外の人間の気持ちを想像できる能力です。感性と言い換えてもよいでしょう。大切なのは、感性を磨くことです。他人の気持ちを慮る感性が育つなら、辛い体験をすることなく気持ちを改めることができると思うのです。
 そう思いながら、ちょっと疑問が浮かびました。先ほどのお二人は辛い体験によって考えを改めたのですが、でもですね。改めた結果が正解なのかどうかはわからないのですね。もしかしたら、誤ったほうに改めた可能性もあります。
 ホントに、人生は難しい…。
 じゃ、また。




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