<裏づけ>

pressココロ上




 東京の方にしか通じない話で申し訳ありませんが、最近東京12チャンネルが経営や経済などビジネスに関連する番組で充実しているように感じています。「ガイアの夜明け」や「ソロモン流」、そして新たに「ルビコンの決断」という番組が始まりました。僕のような年齢になりますと、バラエティやドラマなどには興味がなくなりますので、いわゆる柔らかい番組より堅い番組に注目してしまいます。そういう気持ちで番組表を眺めていますと自然と12チャンネルの充実ぶりが目についてしまいます。
 テレビ番組はうしろにスポンサーが控えていますので視聴率を取ることが第一命題です。視聴率を取れずに打ち切りになった番組には枚挙に遑がありません。視聴率を無視して番組を作ることは不可能です。
 昔は、高視聴率と言われる番組は少なくとも20%後半を越えていましたが、近年はメディアの多様化により視聴率の平均値が下がっているようです。高視聴率と言ってもやっと20%を越えるかどうかという程度になっています。僕の推測では今の若い人はあまりテレビを見ていないように思います。それは店の前を通る若い人の行動で感じます。
 テレビの放映時間は多くが30分とか1時間単位で作られています。例えば7時から始まった番組が終わるのは7時54分頃です。もしテレビを見ているならその区切りの時間に買い物に行ったりなど外出するのが普通です。ところが店の前を通る若い人たちはそのような区切りの時間とは全く関係なく外に出歩いています。僕は、若い人たちのこのような行動から「若い人のテレビ離れ」を実感しています。
 テレビ全体の視聴率が落ちていることは製作者側の人たちにとっては大きな悩みの種ですが、こうした悩みが起きるのは今までの視聴率が高かった番組だけです。今までそれほど高視聴率でなかった番組はあまり大きな影響や変化は感じないのではないでしょうか。冒頭に書きましたビジネス関連の番組などは元々視聴率が高くなかったのですからこれに当てはまるような気がします。
 テレビ全体の視聴率が落ちている中で、今までと同じくらいの視聴率を取っていることは意義があります。相対的に見るならば視聴率が上がったことになるからです。スポンサーに対する受けもよくなって当然です。つまり価値が上がったことになります。
 ビジネス関連の番組が視聴率が高くない理由は、ドラマやバラエティなどのように対象を広い範囲に設定していないからです。特定の人たちだけを対象にしているのですから当然です。しかし、その特定の対象の人たちがスポンサーが求めている層であるならば例え視聴率が高くなくとも意義があることになります。ビジネス関連の番組は正しくそういった番組です。こうした点がドラマなどのように多くの人を対象にする番組とは最も異なる特徴と言えます。
 こうした特徴は、インターネットの特徴と似ています。インターネットの特徴としてロングテールという現象があります。すでに有名な現象ですので説明するまでもありませんが、ベストセラーではないが必ず一定の人たちには支持されています。
 僕は自分のサイトの分析を見ていて不思議に思うことがあります。それは新たに訪問してくださる方々の人数です。新規訪問者の方はほとんどが検索エンジンからやってきますが、ほぼ毎日、少ない日は1人から多い日は8人くらいの人たちがやってきます。不思議なのはそれ以上人数が増えないことです。新規訪問者が一人も来ない日は1ヶ月の間に1回あるかないかですので1ヶ月でみますとそれなりの人数が来ていることになります。それならばそうした人たちが偶然でもいいですからある1日に集中することがあってもよいはずです。しかし、そうした日は1回もありません。脱サラに興味のある皆さんは、いつも日にちを分散して検索しているようです。不思議ですよねぇ。これもある種の「神の見えざる手」なのでしょうか。
 ある本を読んでいましたら、新社会人に「将来脱サラをする意志がある人」というアンケート結果が出ていました。その割合は約3割でした。この結果を多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょうが、全体からみれば少数派であることは間違いありません。その少数派の人たちの中でもさらにラーメンという業種で脱サラを考えている人が僕のサイトを訪れるのですから、僕のサイトを訪れる人が少なくても当然かもしれません。そしてそうした人たちは毎日少しずついることになります。こうした現象もロングテールと言ってもよいのではないでしょうか。実は、僕はこの現象が東京12チャンネルのジビネス番組のように思えとても喜んでいます。視聴率は低くてもピリッと辛ければよいのです。
 僕は以前、このコラムでインターネットの「フラット化」(著:佐々木尚俊)について書きました。フラット化により「誰が」よりも「内容」が問われるようになる、という佐々木氏の意見を紹介したのですが、この場合の「誰が」とは著名であるとか社会的地位が高いとかいった権威のあるなしを意味しています。今までは権威のある人だけの考え・意見が世の中に紹介されていましたが、今後はフラット化により「権威」そのものが意味のないものになりますので「誰が」は意味をなさないことになります。しかしだからと言って「誰が」を全く無視していいわけがありません。
 例えば、野球少年にバッティングを教えるとき、草野球の監督とイチロー選手が教えるのではその説得力に段違いの差があります。監督とイチロー選手の教える意見が異なっていたなら当然のごとくイチロー選手の意見に従うでしょうし、もし意見が同じであっても監督とイチロー選手では言葉の持つ重みが違います。
 このように同じ言葉でも監督とイチロー選手で重さが違うのは、監督とイチロー選手それぞれが持つバックボーンが違うからです。イチロー選手はメジャーでさえ賞賛される技術を持っていますのでそうしたバックボーンが言葉に重みを与えています。それゆえにバックボーンは言葉の裏づけとなります。言葉は裏づけがあってこそ生きてきます。
 ともすると、インターネットの世界は権威が通用しないことを利用して口先だけで意見を主張することができます。泥棒が「戸締りに気をつけましょう」と言うこともできます。口先だけの意見に惑わされないために、「誰が」を権威に結びつけるのではなく、「誰が」を「裏づけ」に結びつけることは必要な努力です。
 本屋さんに行きますとビジネス関連の本が山積みになっています。その中でも自己啓発本は若い社会人の方々が注目するところでしょう。これだけの膨大な本の中から本当に有意義な本を選ぶのは至難の業です。そうしたとき、選択の基準として著者および著作にきちんとした裏づけがあるかないかを意識することはとても大切な要因です。
 ところで…。
 日頃、僕のことをいじめ虐待している妻。
 先日は、なにを思ったか自分が食べていたポテトチップの袋の中を見ながら「あと少しだから、最後のをあげるね」と言いました。ここまではとても優しい感じですが、そのときに僕の片方の耳を引っ張り自分のほうに引き寄せ「はい、口を開けて」と言い袋をさかさまにしてカスばかりのポテトチップを僕の口の中に落とし込みました。僕は口を上に向けて開けながら思いました。
「なにもこんなふうにして食べさせなくても…」。
 こんな妻がここ数日、「腰が痛い」と言い始めました。妻によりますと、先週の休みの日にブックオフに行ったのですが、そのときに不自然な姿勢で30分ほどマンガを立ち読みしていたのが原因だそうです。日にちが経つにつれ痛みが増してきたようで今日などは少し動くのも辛そうで歩くだけで「痛い痛い」を連発していました。妻は言いました。
「たったあれだけのことでどうしてこんなに痛くなるのかなぁ」
 僕は苦しそうにしている妻の様子を見ていて思いました。
「やっぱり、神様っているんだ」
 じゃ、また。




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