<雲の上>

pressココロ上




 朝鮮半島がかまびすしいです。韓国では元大統領が自殺し北朝鮮では核実験が行われました。元大統領は就任時の賄賂を疑われたことが理由のようですが、結局なにも解明されないまま捜査は終了しそうな雰囲気です。大統領という要職は一般の人たちからしますと雲の上の存在ですのでそこで行われている出来事は一般の人たちにはうかがい知れません。雲が視界を遮っているからです。雲は権力者のとって都合のよい遮断物です。
 その雲を意識的に作っているように見えるのが北朝鮮です。北朝鮮の格差社会は日本の比ではありませんが、それを可能にしているのは分厚い雲の存在です。独裁者が統治する社会に雲はなくてはならない遮断物です。
 韓国は民主国家ですので、永遠に雲の上にいることはできません。選挙という洗礼を受ける必要がありますので雲の上にいた人がそこから降りてくることもあります。今回の事件も雲の上から降りていた状態だったことが要因の1つのように思います。雲の上にいる人を裁くのは容易ではないはずです。雲の上はその住民たちにとっては過ごしやすいことは間違いありません。
 先日読んだ本は「チャイコフスキーコンクール」です。世界的なピアニストである中村紘子氏がチャイコフスキーコンクールの審査員を務めたときのできごとや感想を綴った本ですが、当時のクラシックピアノ界の様子が率直な目で紹介されています。「当時」と書きましたが、この本はとても古い本で今から20年以上前に出版された本です。なにしろベルリンの壁が東西を分断していた時代ですから、現在とは社会そのものが違っていますが、それでも現在でも同じ問題は続いているように見えます。
 中村氏はコンクールそのものに疑問を抱いているようで、審査員の裁量によって順位が決まってしまうことに違和感を持っていました。例えば、陸上競技のタイムやサッカーのスコアのように数値化されることによって順位が決まるのは納得できます。しかし、数値化されないものは審査員それぞれの個人的感性による部分が順位に大きく反映されます。この問題はピアノ界に限らずほかの業界でも起こり得ますが、現在でも同じ悩みは続いています。
 中村氏はあと1つの問題点として「コンクールの数が多すぎる」ことをあげています。コンクールが多いということはそれだけ優勝者が多いことですが、それは即ち優勝した価値が下がることにつながります。そしてそのことは例え優勝してもピアノを生活の糧して生きて行くことができないことを意味します。これではピアノのプロは育ちません。
 僕はこの本を読んでいて弁護士会を連想しました。数年前、司法改革国民会議は「国民の立場に立った司法改革」を標榜し司法試験合格者を年間に3,000人ずつ輩出することを目指すべく決定しました。こうした流れに応じて雨後のたけのこのように法科学院ができました。これにより法曹界を目指す学生ばかりでなくサラリーマンを辞めて挑戦した人もいたほどブームになりました。しかし、その後の結果はあまり芳しいとはいえず、多くの学院が赤字経営となり、学生の側としては合格率も決して高いものとはなりませんでした。
 こうした結果を踏まえて、閉鎖する学院も出てきましたし弁護士会も目標とする合格者の人数を減らす方針に変更したようです。そもそも弁護士会内には弁護士の人数を増やすことに反対する人たちも少なからずいましたので当然の流れのようにも思えます。弁護士の人数が増えることは競争相手が増えることですし、それは即ち一人ひとりの収入が減ることにつながります。このことは職業としての収入面での価値が下がることです。ピアノコンクールの優勝者と同じ状況になることです。雲の上ではなくなることです。
 このように「雲の上でなくなること」はその住民にしてみますと歓迎すべきことはありませんが、僕は決して悪い流れではないと思います。雲の上の人たちにとってデメリットである「競争相手が増えること」は当人たちに苦痛を与えますが、業界のレベルが高くなることでもあります。そしてあと一つの大きなメリットは大衆化されることです。大衆化とは一般の人の視線でものごとを考えられることです。一般の人たちの感覚がわからずに一般の人たちに受け入れられるはずがありませんし認められるはずもありません。
 Jリーグが発足する前、いくらサッカーがうまくともサッカーを生活の糧にすることはできませんでした。しかし、今はサッカーがうまければプロとして生きて行くことができます。そのJリーグはサッカー人口の裾野を広げたことが成功の要因です。大衆化です。
 ピアニスト、弁護士どちらの職業も敷居をもっと低くしより多くの人に親しまれるような環境を作るなら例え競争相手が増えたとしてもプロとして成り立つのではないでしょうか。経営的に言うならパイを広げる、市場を広げることです。
 プロ野球はJリーグの誕生により娯楽としてのプロスポーツの地位を脅かされました。そうした危機感がファンを大切にする組織へと変貌させました。これはプロスポーツ全体で見た場合のスポーツ間の競争による賜物です。競争は必ず全体のレベルを上げます。
 世の中を見渡してみますと、かつて雲の上の存在と言われた職業が現在では世間一般から批判されることが多く見受けられます。古くは聖職と言われた教師、頭脳優秀な人の集まりである官僚、そのほかには医師、弁護士などがあり社会から尊敬・信望を集めていました。しかし、現在では批判されることのほうが多いような状況です。その理由は雲の上の実態が見えるようになってきたからです。
 それとともに雲の上の住人たちの気質が変わったことも大きいのではないでしょうか。昔は、雲の上の人たちには雲の上の住人にふさわしい気概があったように思います。その気概が時代の変遷とともに薄れてきたことも見逃せません。そしてなぜ薄れてきたかといえば、それは雲という遮断物により雲の下の人たちの視線を意識しないことが長く続いたからです。昔の雲の上の人の本を読みますと、昔は「ノブレスオブリージュ」が確かにありました。最近のこのような状況では、雲の上の人の感覚が雲の下の人たちとの感覚とかけ離れても当然です。
 近年、昔ではあまり見られなかった教師や弁護士への批判が増えているのは雲が取り除かれつつあるかです。そして、こうした傾向は今後さらに増えていくでしょう。どうせ雲がなくなるのなら、雲の上の人たちは自分から雲の上から降りることも一つの方法です。
 雲の上の人であろうと人間に変わりはありません。昔の偉い人は言いました。
「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」。
 ところで…。
 我が家では、妻は雲の上の存在ですが、そうした状態が二十数年も続いていますと、妻もつい態度がデカくなってきます。今までになん度か雲の上から引きずりおろそうと試みましたが失敗しています。
 先日、そんな妻と自転車で一緒に走っていました。僕が先頭で妻がうしろを走っていました。途中、道路を横断しようと思いうしろから車がこないかを確認しようと顔をうしろに向け後方を見ました。しかし、僕の視界を邪魔するものがあり後方を確認することができませんでした。
 妻は、態度だけでなく顔もデカかったのでした。
 じゃ、また。




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