<声を出せない人々>

pressココロ上




 今週の本コーナーでは「典子44歳いま、伝えたい。」という本を紹介しています。今から約30年前「典子は、今」という映画がヒットしましたが、その主人公だった方です。読者の中でご存知の方は少数ではないでしょうか。典子さんはサリドマイド児として生まれ両腕が不自由でした。それにも関わらず逞しく生きている様を伝えた映画でした。最近では「五体不満足」の乙武さんが有名ですが、彼よりずっと前に身体障害者として有名になった方です。
 この本の中には、当時の典子さんを取り巻く大人たちの騒々しさゆえに典子さんが戸惑ったり傷ついたりした出来事が書いてあります。当時からマスコミや世間というのは身勝手な存在だったようです。「当時」と書きましたが、歴史書などを読みますと不躾な世間というのは出てきますので「いつの世も」のようです。
 本の表紙には現在の典子さんの顔がアップで映し出されているのですが、とても素敵な表情です。凛々しいという言葉が相応しいように思いますが、充実した年月を過ごしてきたことを想像させます。
 本に拠りますと、典子さんがこの本を出版したのは自分の中で覚悟が出来たからのようですが、それまで典子さんはマスコミ取材を拒否していました。実際、僕などはこの本を読むまで典子さんの存在を忘れていました。覚悟とは障害者の気持ちを世の中に知らせることです。現在は勤めていた市役所を退職し講演活動を行っているそうです。
 僕はこの本を読んで目から鱗が落ちる感覚を持ちました。それは次の場面です。
 高校時代、典子さんは親しい女生徒の友だちがいました。親友ですのでその女生徒はいつも典子さんの身の回りの世話をしていました。ある日、いつものように帰り支度をしていると二人の側にその女生徒の友人が近づいてきて女生徒になにげに言いました。
「いつも大変ね。二人分のことをしなくちゃいけないんだから」
 この言葉を聞いた典子さんは大きなショックを受けます。決して表情には出しませんでしたが、衝撃的な言葉として感じてしまいました。それでも典子さんは気に留めるふうでもなく、そしてその友人を恨むでも責めるでもなくその場をやり過ごしたのですから僕などは尊敬してしまいます。
 僕は、会社員を辞め個人事業主となってから今まで、1つの考えを持つようになりました。それは、「病気をしている人よりも看病している人のほうが大変だ」というものです。第三者は病人よりも看護している人に対してもっと心配りをするべきだ、と考えていました。
 こうした考えは、些細なことですが、ラーメン店時代に原点があります。当時パートさんを雇用していましたが、たまに当日になって突然休むことがありました。そうしたとき残された数少ない人数でピークタイムを捌かなければならずとても大変でした。あるときは近くに住むパートさんに連絡をとりその方の用事を取りやめてもらい代理出勤をお願いしたこともあります。こうした経験が、発生した問題をサポートしたりカバーする周りの人のほうが大変だという気持ちにさせました。
 また、保険の仕事をしていたときお客様を病院にお見舞いに行ったことがあります。お客様は高齢の方で病室のほかの入院の方も皆さん高齢の方々でした。
 病室でお客様とお話している間、隣のベッドの方を観察していますと、そこにはベッドに横たわっているおばあさんとその方の介護をしている女性の方がいました。僕の推測では二人の関係は義母とその嫁といった感じでした。そこに中年女性がお見舞いにきたのですが、しばらくいたあと帰り際に病人の方と嫁の方とそれぞれに声をかけて帰りました。
おばあさんには「それじゃ、頑張ってね」
お嫁さんには「それじゃ、よろしくお願いね」
 お見舞いの女性が帰ったあとのお嫁さんの複雑な表情が忘れられません。お嫁さんは充分頑張っているはずです…。
 このような状況は、近年問題になっている介護の現場でも起きているようです。最近では介護をする側のアフターケアについても盛んに議論されているようですので僕としてはよい傾向だと思っています。
 今から10年ほど前、妻の実家に行ったときの話です。
 当時、妻の実家には妻の祖母が健在でした。健在とはいえかなり高齢で目はほとんど見えず耳もわずかにしか聞こえていませんでした。このような祖母ですので身の回りのことは全て同居している女性たちが行っていました。
 僕がたまたま居間におり、そこに祖母もいました。そこへ近くに住む親類の男性が訪ねてきました。その男性は僕の父と同じ年代で妻の実家とはとても親しくしていたようです。その男性は居間に入るなり祖母に笑顔で元気な大声で言いました。
「おお、ばあさん。まだ生きてたか?」
 この台詞、人によっては意地悪で辛辣に聞こえるかもしれませんが、僕には暗鬱な感じもしませんでしたし嫌味な響きも感じられませんでした。それどころか僕には2つの意味で優しさが感じられました。
 1つ目は、ユーモアに包んで(ブラックですが)祖母を元気づける意味。2つ目は身の回りの世話をしてくれている人を労う意味。これら2つの意味が「まだ」に含まれているように思いました。もちろん、僕にとってはこの2つ目の意味がとても意義があるように思えました。
 このような経験から、僕は「病人より看病をしている人に対してより気配りをする」のが本来のあり方であると考えてきました。そんな僕が「典子44歳…」の中で印象に残った場面の箇所を読み目から鱗が落ちたのでした。僕はこの場面を読みながら心の中で「あっ」と叫んでいました。
 僕は「看病している人」を慮る気持ちが強いばかりに、病気をしている当人の気持ちを慮る気持ちが少なくなっていたように思ったのでした。看病している人に対してあまりに気配りをしすぎると病気をしている人は「迷惑をかけている」という辛い気持ちになってしまうでしょう。本当はどちらも辛いはずで、本来は第三者は中立の立場にいなければならないはずです。それがいつの間にか僕は「看病する側」に立ちすぎていたようです。それにしても真ん中、中立でいることは難しいものです。中庸な精神を保つのは容易ではありません。
 臓器移植法が改正されましたが、どの案が最適なのか、本当に難しいですよねぇ。忘れてならないのは「弱い立場の人は気軽に声を出せない」ことです。
 ところで…。
 先日、ラジオを聴いていましたら「ほぼ日刊イトイ新聞」で有名な糸井重里さんが出演していました。僕は常々、糸井さんは「優秀でない人」や「強くない人」の気持ちがわかる人、と思っていたのですが、番組の中で次のように語っていました。
「うまくしゃべれない人が損するのはおかしい」
 昨今、ビジネス界ではプレゼンの方法とかセールストークのやり方などを指南する本が氾濫していますが、人間には得手不得手があっても不思議ではありません。みんながみんな、プレゼンがうまくなるとは限りません。そのような意味を踏まえて糸井さんは先ほどの言葉を言ったのですが、心にストンと落ちる言葉でした。うまくしゃべれない人でも不利益を被らない社会になればいいなぁ、と僕も思います。
 因みに、うまくしゃべれなくても逞しく生きている人もいます。僕の妻は、僕と言い争いをしたときに興奮のあまりうまくしゃべれないときはたった一言言うだけで言い争いに終止符を打つことができます。皆さんも試してみてはいかがでしょう。
「おい、グーするぞ!」
 このとき、必ず利き手のほうをグーの形にしていましょう。
 じゃ、また。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする