<グーチョキパー>

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 今週のお題は誰でもご存知「ジャンケン」のグーチョキパーですが、このルールは本当に公平にできています。グーもチョキもパーもそれぞれ負ける相手がいることです。もし、どれか1つにほかの2つに負けない力を持たせたならジャンケンというゲームが成り立ちません。片方には勝つがもう片方には負けるというルールがジャンケンをバランスのとれたゲームにしています。
 今週の本コーナーで紹介しています「国家の罠」(著:佐藤勝)という本は読み応えがありました。出版した当時にベストセラーになっていますのでお読みになった方も多いでしょう。僕は性格がひねくれていますので、賞をとり世間の注目を集めた本には興味が湧かないのですが、この本は読んだ甲斐がありました。
 僕がこの本および著者である佐藤氏に興味を抱かなかったのは、テレビに映し出された佐藤氏の人相に関係しています。その映像は逮捕間近となった佐藤氏を報道陣が取り囲みもみくちゃになっていたときの佐藤氏の顔のアップでした。目つきが悪くふてぶてしく爬虫類のような人相に見えました。一言で言うなら悪人面です。今になって考えてみますと、あれほど異常な状況に置かれたなら誰でもあのような人相になっても仕方ないと思っています。
 しかし、第一印象として佐藤氏に対して悪感情を抱いていましたので、そんな悪人が書いた本は単なる自己正当化の本でないか、という先入観がありました。ところが本の内容は先入観とは全く違ったとても勉強になる内容でした。
 僕は、裁判でいくら検察官や弁護士が議論を尽くし白黒決着をつけようが「真実は当人しかわからない」と考えています。実際に冤罪という事実があるのですから、裁判における判決が正しいとは限りません。また、仮に裁判で無罪の判決を受けようが、世間には判決に対して疑いの目を向ける人がいるのも事実です。
「…でも、本当のところはどうなのよ」
 一度逮捕されてしまうと、こうした視線から逃れることは不可能でしょう。この事実から鑑みますと有罪無罪に関係なく「逮捕=社会的有罪」といえます。例え裁判で無罪を勝ち取ろうが逮捕された時点で社会的には有罪となってしまいます。この社会的有罪から逃れる方法は1つしかありません。その後の生き方です。「国家の罠」は僕にそんなことを教えてくれました。
 芸能人や著名人にも逮捕された人は少なからずいますが、有罪無罪に関わらずその後に生き残る人と消えてしまう人がいます。この違いは、その人の持つ本質がその後の生き方に表れるからではないか、と思います。例え本当に有罪であっても、その後にも活躍している人たちは、その人の本質が周りの人たちに支持されていることであり有罪も意味をなさなくなっています。
 芸能人や著名人はメディアなどで多くの人の目に触れますのでその人の本質を知らしめることができますが、一般の人はそうはいきません。一度逮捕されたなら一生 「…でも、本当はどうなのよ」の視線を受け続けなければなりません。こうした実態を考えますと、冤罪は決してあってはならないことです。今回の足利事件を契機に新聞などでは冤罪を検証する特集が組まれていますが、一時期のことで終わらせることなくそして風化させることなく徹底的に追求してほしいものです。
 民間企業で働いていますと、頭を下げペコペコしなければならない相手が必ずいます。ペコペコしなければ倒産することもあるからです。その相手とは小売業ですとお客様ですし、製造業ですと消費者や問屋さんなどです。こうした関係はときに需要の変化により立場が逆転することもありますが、ペコペコすることがなくなることはありません。必ずどこかにペコペコしなければいけません。
 それに比べてペコペコする必要がない職業もあります。よくお役所仕事と言いますが、昔のお役所はその1つでした。昔、お役所は民より一段上の意識がありましたのでサービスのかけらもありませんでした。そうした意識が能率が悪く無愛想な役所を作っていたように思います。時代の変遷によりお役所も近年はそうした意識もなくなりましたが、その理由は時代の要請と住民の意識の変化です。
 本来のお役所の使命である「住民への奉仕」を求める住民が増えたことが大きな要因です。最近のお役所は住民にペコペコしなければ住民に納得されなくなっています。この傾向はお役所の本来の姿ですが、僕の個人的感想としては「ちょっと行き過ぎ」のようにも思っています。
 誰しもペコペコするのは気持ちのよいものではありませんが、そこには自らを戒める効果もあります。人間はややもすると傲慢になりがちですが、それを気づかせてくれるきっかけを与えてくれます。他人の気持ちを察する感性を磨かせてくれます。謙虚な精神を醸成させてくれます。
 先ほど、ペコペコしなくてもよい業種として昔のお役所を挙げましたが近年は改善されてきています。昔の話で言うなら、昔の大企業もその1つと言ってよいでしょう。社会が個人より産業を重要視していましたのでペコペコする必要はありませんでした。そのよい例が公害です。当時、いくら個人が訴えようが大企業は個人を虫けらのようにあしらっていました。ペコペコしたことがないのですから当然の行為です。しかし、近年は大企業といえども個人にペコペコしなければ生き残っていけない時代です。大企業を取り巻く状況が昔とは違ってきています。
 しかしそのような現代でも、ペコペコしなくとも済む業種があります。「国家の罠」はそれを教えてくれました。検察と裁判所は誰にもペコペコすることがないのです。する必要がないのです。ある統計では検察が起訴した約97%が有罪になるそうです。こうした状況を踏まえますと、冤罪は双方に責任があります。そして冤罪を生む原因は検察、裁判所ともにペコペコしなければならない相手がいないことです。ペコペコした経験がない人たちにペコペコしなければいけない人たちの気持ちがわかるはずがありません。
 僕は冒頭でグーチョキパーの公平性について書きましたが、一般社会も公平な社会を求めるならジャンケンと同じルールで成り立つべきだと思います。公平な社会は強者が常に強者でいるのではなく弱者になることもあることでバランスを保てます。一般社会では、多くの場面でそれは成り立っていますが、例外のケースもあります。それが検察と裁判所ではないでしょうか。冤罪の原点はそんなところに潜んでいるように思います。公平な社会を目指すなら、検察と裁判所がグーチョキパーの世界に入ってくることが必要です。
 ところで…。
 本文で「グーチョキパー」は公平なルールだと書きましたが、世の中には強引な人がいるものです。「グー」は本当は「パー」に負けるはずなんですけど、なぜか「グー」で無理矢理「パー」に勝とうとする人がいるんです。世の中には…。
 先週のこのコラムを読んでいる人はわかりますよねぇ…。
 じゃ、また。




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