<政治家審議委員会>

pressココロ上




 驚きました、朝青龍の引退。
 報道によりますと、朝青龍が自ら引退を決意するより前に、横綱審議委員会で引退勧告がなされる予定だったようです。「勧告」されるよりは自ら決断したほうがよい、と考えたのでしょう。政治家がよく口にする「進退は自らの決断で」という言葉に照らし合わせたなら筋の通った判断だったように思います。
 僕は週刊誌はほとんど読みませんから、世俗に疎いところがあります。僕が週刊誌に接するのは新聞の下段に載っている広告だけです。ですからその広告に出ている見出しだけしか知りませんが、朝青龍については批判や誹謗中傷の見出しが頻繁に出ていました。やはり週刊誌は新聞に比べますと信頼性に劣りますが、かと言って全く嘘八百というわけでもないようです。嘗ては、ロッキード裁判も週刊誌が発端ですし、三浦和義事件も、またトリカブト事件などもそうでした。その呈で言いますと、まんざら信用できないわけでもなさそうです。
 その週刊誌であれだけ叩かれるということは、やはり朝青龍自身に問題があったかもしれません。ですが、週刊誌の記者の執拗な取材と記事が朝青龍をいらだたせたのは想像に難くありません。もしかしたら、必要以上の反応をしたかもしれませんし、それが更に週刊誌のネタとなった面もあるはずです。週刊誌はできるだけ衝撃的な見出しが生命線だからです。
 ニュースで引退記者会見の模様を見ました。映像が流れた時間が短かったので詳細な内容は放映されず話すときの表情を見ただけです。しかし、それより前にネットで記者との質疑応答も読んでいましたので、一問一答はわかっていました。
 僕は、朝青龍の記者会見を総合的に見るなら「天晴れ」という評価です。「吹っ切れた」「爽やかな」感じがしました。特に、あれだけ執拗に糾弾していた週刊誌と記者に対して「生活がかかっているから」という言葉をつないだのは「天晴れ」と言ってもよいのではないでしょうか。今後は「元朝青龍」となるのですから、最後の朝青龍としての立場で恨みがましい捨て台詞を吐くこともできたでしょう。それをせずに横綱としてみごとな記者会見を行ったと思います。最後の最後に、横綱の品格を体言したのではないでしょうか。天敵である内館氏も、最後なのですからもう少し優しい言葉をかけてもよかったように思います。
 また、師匠である高砂親方の表情がちょっと微笑んだような、安堵したような、そして悟ったように見えたのは私の思い入れ過ぎでしょうか。たぶん、親方にしても「ふがいなさ」ばかりをマスコミから指弾され不快な気分が続いていたと思います。そうした時期を通りすぎたあとの爽やかな風が親方の表情にも漂っていました。
 このように全体的に好印象な決断の引退ですが、その背後に横綱審議委員会の存在も見逃せません。このように言ってしまうと、朝青龍自身の決断の価値が半減してしまうかもしれませんが、委員会の存在が大きかったのも事実です。人が正しい判断をするときには当人にプレッシャーを与える、もしくは見守る大きな存在が欠かせないのかもしれません。人によってはそうした存在を神というかもしれませんが、相撲界という実世界では横綱審議委員会という存在でした。
 朝青龍の引退にも驚きましたが、もっと驚いたのが小沢幹事長の不起訴です。あそこまで踏み込んでおきながら不起訴は驚きでした。あの渦中の中で1つ、僕が腑に落ちないことがあります。それは2度目の聴取についての報道です。
 1度目の聴取のとき、マスコミはこぞってその日にちを執拗なほど執着していました。それが、2度目の聴取については済んだあとに「実は○○日に2度目の聴取が行われていた」と報じただけでした。僕には、それがどうも合点がいきません。
 我が家が購読しているのは読売新聞だけですので、他の新聞はわかりませんが、読売は小沢氏に対して検察以上に追求しているように感じます。不起訴が決まったあとも小沢氏を取り巻く巨額な政治資金出し入れの不自然さを追いかけていますし、党内の反小沢陣営の発言を伝えてもいます。
 小沢氏のロッキード裁判における田中元首相への忠誠心はあまりに有名です。あの長い裁判を最後まで欠かさず傍聴したただ一人の国会議員です。当時まだ若手だった小沢氏がなにを思って最後まで裁判を傍聴したのかは本人しかわかりませんが、今回の検察との対峙に役に立ったことがあるのでしょうか。
 新聞には「2度目の聴取のあとの記者会見から小沢氏の発言に変化が表れている」と書かれています。もしそれが真実なら、その聴取の場で検察となにかしらの取引があったと素人的には考えてしまいます。そして結果が不起訴ですから、多くの国民が不信感を抱いても不思議ではありません。
 今回の「不起訴」の報道に接して、僕は自民党の元幹事長金丸信氏の事件を思い出しました。金丸事件でも、最初は検察が「不起訴」に決めましたが、世論の反発が高まり、最終的には在宅起訴をするに至りました。このときもそうですが、マスコミが世論というときは、実はそれは「世の人々」ではなくマスコミ自身が占める割合が高いのが実態です。今回の小沢氏の疑惑も、マスコミの動向を見ていますとこのままで終わりそうにはありません。また、昨年法律が改正され、「告発された事件は検察が不起訴とした場合でも、告発者が検察審議会という機関に異議申立てをし、その審議会で不起訴不相当と答申したときは自動的に起訴される」そうです。ただし、その答申が2度なされなければならないようですが…。
 僕は、どんな人でも組織でも、そしてそれらが権力を持っていればいるほど監視する機能が必要だと思っています。その意味で検察に対しても監視する審議会というものができたのは賛成です。誰かが悪いことをしたと思われるとき、それに対して「起訴・不起訴」を検察だけの判断で決めるのは適当ではありません。そこには検察の恣意が入ってもおかしくはないからです。僕はたびたび冤罪について書いていますが、冤罪もその原因は検察に対する監視機能がないことです。検察審議会ができたことで、その入り口を監視することができるようになりました。次は、冤罪を起こしてしまったあとの監視機能です。
それができたなら冤罪もなくなるように思います。つまり検察の入口と出口に監視機能をつけることです。それが完成して初めて検察という強大な権力をコントロールすることができます。
 検察も権力が強大ですが、もっと強大なのが政治家です。そして既に政治家を監視する機能はできています。政治家審議委員会は既にあり、その委員は成人国民の全員です。ただこの委員の方々は審議会に参加する人が少ないのが問題です。審議会に参加しなければ正しい答申など出せるものではありません。今年7月に政治家審議委員会があります。皆さん、参加しましょう。
 ところで…。
 日本が世界に誇るトヨタ自動車が揺れています。ブレーキの不具合が問題になっていますが、先週終わり間近になって社長が記者会見を行いました。こういうときマスコミは決まって「遅きに失した」と言いますが、ステロタイプ的な批判のように感じて僕は好きではありません。
 今回の問題に対してトヨタは副社長が会見を開いたり、また担当役員が説明の会見を開いたりしていました。僕は、その担当役員の会見を見て違和感を覚えました。
 まず、この役員の姿勢、振る舞いでした。会見場の席に着くまでの歩き方、顔の表情、椅子への座り方など自分の置かれている立場を理解していないように感じました。あの時点で、消費者は車に対する不安とともにトヨタに対して憤りという感情を持っていたはずです。それが「ブレーキの利きがおかしかった」という苦情になって出てきています。
 このような事件がおきますと必ずと言っていいほど、普段なら「感じない」違和感を人間は感じやすいものです。悪意があるとか意図的であるとかではなく、人間の持つ感覚の問題です。情報に流されやすいのが人間です。
 そのような社会状況のときに、担当役員は見方によっては笑みを佇ませたような表情で出てきました。あの会見では、最低でも無表情、できれば神妙な雰囲気をかもし出していなければならない場面です。
 今から十数年前、南米ペルーで日本大使館がテロ組織に占領された事件がありました。最後は、当時のフジモリ大統領の決断で軍が突入して終結させたのですが、かなり激しい銃撃戦が展開されました。そして大使館内に人質となっていた人たちが開放されたのですが、開放された直後の日本の大使が激しい銃撃戦を物語る大使館を背にしてインタビューを受けました。
 そのときの態度が「ふてぶてしい」として物議をかもしたのですが、そのときの大使の態度は「タバコをくゆらせふんぞり返って」鷹揚に構えたものでした。のちに大使は「世界中に映像が流れるので、日本人として恥ずかしくないように武士のように泰然としている姿を見せたかった」からと弁明しています。「泰然」と「ふてぶてしさ」は紙一重です。よほどうまく演技をしなければ逆効果となってしまいます。
 トヨタの役員にも「できるだけ不安を鎮めるために」という意図があったのかもしれません。しかし、あの場面では逆効果です。
 次に、役員が発した「素人は…」という言葉です。これは一般の人を見下した言い方です。あの場面では「一般の方は…」という言葉が適切です。たぶん、社内では「素人」という言葉を意識することもなく使っているのでしょう。それがつい出てしまったのかもしれません。確かに、一般の人は車のことに詳しくありませんから「素人」に違いはありません。しかし公の場で、しかもリコールにまで発展しそうなブレーキの不具合を説明する場で「素人」という言葉はふさわしくありません。あの役員の会見をリスク管理の専門家が採点したなら誰もが落第点をつけるでしょう。
 人間には誰でも内面と外面があります。同様に、ビジネスの場面においても社内用と社外用があってしかるべきです。公の場に出て説明をする役員は社内用と社外用を使い分けるのが当然の対応です。それでこそ「ハイブリッド」車を売る資格があるといえるものです。。
 じゃ、また。




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