<公共サービス>

pressココロ上




 いつの新聞か正確な日にちは忘れましたが、気になる記事がありました。それはある地域で「コンビニで住民票をとれるようになった」という内容です。僕は、お役所は「究極のサービス業でなければならない」と考えていますので、とても印象に残る記事でした。
 僕の考えとは反対意見の人もいると思いますが、それは「お上意識」が根底にあると思います。確かに、お役所には税金を集めたり配分したり、また行政を遂行するのが仕事でもあります。つまり「住民を管理する」側面です。しかし、それらの仕事の大元の発注者は住民ですので、その住民に満足を与えるのが仕事の本来の役割です。昔から言われている「住民への奉仕」がお役所の第一義でなければいけないはずです。
 住民にとっては「住民票がコンビニでとれる」ようになったのは朗報です。多くの住民は平日は仕事などがありお役所を利用できないことが普通ですから、土日祭日に関係なく営業をしているコンビニで「住民票をとれる」ことはこのうえない利便性があります。
 しかし、その前に僕は「お役所が平日しか利用できない」ことが不満です。「究極のサービス業」であるなら、住民目線で見たとき土日祭日も利用できるようにするのが住民への奉仕につながります。コンビニでできることがお役所でできないはずはありません。
 土日祭日に関係なく営業している業種はコンビニだけではありません。スーパーや百貨店、交通関係なども日にちや曜日などに関係なく営業しています。今、紹介しましたのは民間ですが、公営であろうとも消防署や警察署などたくさんあります。そうしたことを考えるならお役所だけが例外扱いされているのが不思議です。
 コンビニで「住民票をとれるようになる」ことで、僕には1つ疑問があります。今まで住民票を発行するという業務についてです。今まで、そうした業務も職員の方が行っていたのですから、その業務を移行させることは即ち、その業務を担当していた方の仕事量が減ることを意味するはずです。そのことを大きく捉えるなら、人件費が減ることにもつながるはずです。もし「住民票発行」がコンビニに移行してもなお、人件費が減らない、もしくはほかのサービスが充実しないなら、単にコンビニへの手数料が増えるだけでお役所がただ「楽になった」だけになってしまいます。これでは本末転倒と言われても仕方ありません。
 一昨年の年末は派遣村がマスコミをにぎわせました。その際に、派遣村が解散したあと、それでも仕事が見つからない人たちに「お役所が仕事を提供した」事例がありました。例えば、簡単な事務作業や地域の清掃などの仕事を提供したようです。この事例は、僕に考えさせました。
 民間であったなら、失業者救済という理由で作られた仕事であってもその仕事に対して人件費を出すことはなんの問題もありません。あくまで一企業の問題ですし、その企業の利益の中から人件費を出すだけだからです。企業の利益面だけを重視する一部の株主以外は受け入れると思います。問題がないどころか、ある意味社会貢献の意味合いで賞賛されるかもしれません。しかし、お役所の場合はその人件費は税金から支払われることになります。人道的な面から考えますと、失業者に仕事を与えることは意義があります。しかし、その人道を下で支えているのは住民から集めた税金です。そこで僕は考えます。
 お役所の存在価値は「住民へサービスを提供する」ことにあるのか、それとも「雇用を生み出す」ことにあるのか…。
 大方の人は前者を支持すると思いますが、仮に後者が本来の存在価値だとするといろいろな問題が生じます。
 「雇用を生み出す」としても人件費は少ないほうがいいに決まっています。お役所の人件費は税金から捻出されますが、その税金も有り余っているわけではありません。そこで考えられるのは非正社員を多用することです。さらに突っ込むならボランティアという方法もあります。
 数年前、自民党政権時代に政府は地方の財政赤字を解消するために、強いては地方交付税を減額するために市町村の合併を促しました。平成の大合併とマスコミで報じられていましたから記憶に残っている方も多いでしょう。
 この大合併には「合併を推進したなら合併特例債、地方交付税などを優遇する」という飴がありましたので多くの市町村が合併を行いました。しかし、福島県の矢祭町はそうした方針に逆らうように単独で生き残る道を取りました。このときの市長である根本良一氏はマスコミで取り上げられることが多かったので、覚えていらっしゃる方も多いでしょう。
 この矢祭町が一昨年画期的なことを行いました。それは町議会議員を兼職とし、議員報酬を日当制にしたのです。そうした対策により議会の人件費が半分以下になったそうです。
 このような町政ですから、お役所の取り組みも画期的です。さまざまな節約を行っていました。僕はこの事例を知り、お役所という機関の1つのあり方を示したように思いました。
 ご多分に漏れず矢祭町も財政的には苦しい状況にありました。矢祭町に限らず地方の市町村は収入より支出のほうが多くなっています。その赤字分を補っているのが交付金ですが、それでも財政的に苦しいのは変わりありません。そうした中で市長ならびに住民が取った方法は市の職員を減らすことで、このことは即ち「住民へのサービス」が落ちることを意味します。実は、「落ちる」どころか、住民がお役所の業務を担ったのでした。
 例えば、それまで市庁舎の清掃を外部に発注していたことをやめ住民たちが行ったり、住民票発行などは商店が請け負ったりしました。そのようにして行政の支出を減らしたのです。これは「住民へのサービス」が本来の役割である行政のあり方を見直す動きです。
 先週、国と地方を合わせた国の借金が900兆円目前に迫っている、との新聞記事がありました。来年度の予算も約半分を国債に頼るという異常な状況です。このような財政状況の中で、住民もお役所に「サービスを求める」ことを見直すべき時期にきているのではないでしょうか。
 もちろん、お役所が「雇用を生み出す」役割であってはいけないと思います。もし、それを認めてしまうなら、必ず不公平が生じます。一時期、問題になりましたが、共働き夫婦が小さな子供を預ける保育園で市の職員が優先されていたことがありました。このような事例は、公共サービスの職員の私物化でしかありません。ナニヲカイワンヤです。
 亡きケネディ大統領は就任演説で国民に呼びかけました。
「国がなにをしてくれるか、ではなく、 まず、自分が国になにをできるのか、を考えよう」
 今後、公共サービスも住民は「受けるのを当然」とするのではなく、公共サービスに参加することが求められる時代に入っていくのではないでしょうか。
 ところで…。
 足利裁判の報道がありました。なんとも不思議ですが、検察が「無罪」を求刑するという異常な形になりました。まさしく検察の失態です。菅家さんの悔しさを思うなら「失態」という言葉では言い尽くせないだろうと想像します。
 報道によりますと、検察は論告の終わりに菅家さんに対して「17年間も服役させたこと」を謝罪したようです。その間、約1分。そして最後に頭を下げたそうです。検察が公の場で謝罪したのは初めてだそうで、プライドの高い人たちにとっては清水の舞台から飛び降りるほどの勇気が必要だったのかもしれません。しかし、菅家さんを取り調べた当時の検察官は、結局最後まで謝罪をしておらず、菅家さんもその検察官にも謝罪を求めています。
 今回、検察が「本当に」「心の底から」謝罪の気持ちがあるなら当時の検察官に対して「謝罪をするよう」説得するべきです。それなくして、真の意味での謝罪にはならないでしょう。
 エリートの人生を生きてきた人にしてみますと、謝罪ほど不本意なことはないでしょう。謝罪することは「自己の尊厳」を踏みにじられる思いにかられるのかもしれません。しかし、菅家さんに比べたならほんの些細な尊厳の喪失でしかありません。仮に、検察官が謝罪したとしても「尊厳を踏みにじられた差」はあまりに大きく、「9,198,000分 対 1分」もの差があります。
 じゃ、また。




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