<ポリシー>

pressココロ上




 僕はビジネス書を読むのが好きです。特に個人史を綴った本はとても感動することが多く、人それぞれの生き方や考え方が如実に表れているので勉強になります。そうした本の中には、左遷された人が月日が流れたあと、運命のいたずらか運のよさかはわかりませんが、復活した例もままあります。
 新聞などに新社長が紹介される記事を見つけると自然とその方の経歴に目がいきます。そのときに、一度子会社に出された人が本社の社長に戻った場合など、「この人は復活したんだろうなぁ」などと勝手に想像してしまいます。
 よく「挫折を経験した人は人間的に奥が深い」などと言われますが、子会社に左遷されることは挫折といえるでしょう。だいたいにおいて子会社に出されることは、本社での出世競争に敗れたことを意味します。そういう経験は必ず、個人の生き方や考え方を見直す契機となりますから、普通に出世する人とは違った生き方や考え方になっても不思議ではありません。出世する人が経験しないことを経験するのですから「人間的に奥が深く」なるのも道理です。
 挫折に関連した話で僕が思い出すのは、やはり三越百貨店岡田社長の「なぜだ!」事件です。この事件については前に紹介したことがありますので詳細は省きますが、この事件にはビジネスマン社会の一側面が表れています。
 岡田社長は社内で天皇と言われるまで権力を思いのままにし、恐怖政治をしいたこともあるようです。そうような社内でも、岡田社長のやり方に異を唱える役員もいました。しかし、ワンマン社長の傾向として、自分の異に沿わない部下を左遷するのが常です。そうした人事を繰り返しますので、最終的には社長の周りには「イエスマン」と言われる茶坊主しか残らなくなります。このような幹部の集団が正しい経営をできるはずがありません。
 岡田社長が失脚したあと、名古屋の三越百貨店に左遷されていた市原晃氏が社長に復活したわけですが、市原氏は岡田社長との競争に敗れての左遷でした。岡田社長の失脚がなければ市原氏が社長になることはなかったでしょう。
 このような人事が起こりますと、それぞれの部下たちのビジネスマン人生について思いを馳せてしまいます。
 ライバル関係にあった両者には岡田派、市原派といったグループができていたはずです。岡田派の人たちは岡田氏が失脚するまでは要職についていたでしょうし、反対に市原派の人たちは左遷されたり閑職に追いやられていたことは想像できます。
 市原氏の復活は、市原派に属していた人たちにも影響を与えます。市原氏の復活により市原派の人たちも復活することになるからです。反対に岡田派の人たちはそれまでの市原派の部下たちと同様の処遇を受けたでしょう。人生、なにが起こるかわかりません。
 僕は今、サラリーマン人生の紆余曲折を書きました。三越百貨店を紹介しましたのは、単に今までで一番印象に残っていた事件だったからです。しかし、こうした事例は三越百貨店にとどまらず、ほとんどの企業で起きているはずです。
 仮に、復活する人たち、失脚する人たち、を最近の呼び方で言うところの「勝ち組」「負け組」としましょう。この勝ち組、負け組は企業の中でいつ変わるかわかりません。ずっと勝ち組に属していた人が、なにかのきっかけで負け組に転落することもあります。自分が支持していた上司が企業の中で失敗を起こしたとき引きずられるように負け組に転落することもあります。しかし、このときに負け組に入っていたことを悔やむ必要もありません。市原派のように、いつ勝ち組に反転するかもしれないからです。
 このように考えるなら、勝ち組負け組どちらに入っているかは重要ではないように思います。中には、負け組に転落して上司を恨む人もいるでしょう。そして、その上司を選んだ自分を呪う人もいるでしょう。しかし、その発想は的外れのように思います。
 大切なのは、各人それぞれの心の中に「自分のポリシーがあったかなかったか」です。そのときの経営を取り巻く環境、時代により勝ち組負け組は容易に変遷します。そのような状況で勝ち組負け組で一喜一憂したところで意味がありません。しかも常に「正しいほう」が勝つとも限りません。
 もしかしたなら、あなたが支持した上司の考えが間違っているケースもありますし、それ以前に、あなた自身の考えが間違っていることもありえます。そんな中で、選択した「派」を悔やんでも仕方のないことです。
 では、なにが大切か…。
 「自分のポリシー」に従って行動したかどうか、だと僕は思っています。仮に、負け組に転落したとしても「自分のポリシー」に従っての行動なら、自分自身に納得もし後悔もしないのではないでしょうか。それを「損得だけを考えて」行動していたなら後悔ばかりが出てくるように思います。大切なのは「自分のポリシー」です。
 「ポリシー」とは「主義・主張」のことですが、簡単に言うなら「自分の軸となる考え」です。三越事件で言いますと、岡田社長の「企業の私物化」や「不公平な人事」が自分の「ポリシー」と合わないと判断したなら岡田派に属さなければよいのです。だからと言って、無理に市原派に属する必要もありません。無所属でもいいではないですか。
 そのときに自分の「ポリシー」に関係なく、「出世できそう」だとか「将来、優遇されそう」などといった表面的、世間的なことだけで判断していたなら、負け組に転落したときの後悔が大きくなるに違いありません。
 大切なのは、自分の「ポリシー」に従った行動をとることであり、その「ポリシー」を磨いておくことです。
 民主党が政権を取ってから、それまで自民党を支持していた組織、団体が右往左往しているようです。例えば、医師会や看護師協会などは自民党支持から民主党支持に鞍替えするようですし、建設業界でもそのような動きが見られます。
 マスコミなどでは、民主党の勝利を「無党派層が投票したから」と解説しています。つまり「組織票でない」ことを指しています。さらに突っ込んで、無党派層の支持だけでは政党の基盤として磐石ではない、とも指摘しています。
 確かに、無党派層ほど移ろいやすい票はありません。いつなんどき「気が変わる」かわからず、安定した票ではありません。しかし、「安定していない」からこそ意義のある投票のように思います。
 例えば、犯罪を犯した議員をいつまでも応援する後援者がいますが、これなどは「安定している」票の弊害です。やはり、議員に相応しくない行動をとったならそれまでどれほど素晴らしい議員であろうとも支持すべきではありません。このような弊害を防ぐには、投票は常に流動的、つまり浮動票であることが正しい投票のあり方ではないでしょうか。
 僕は基本的に、選挙における組織票に疑問を持っています。自分たちだけが優遇されることを目的とした投票に不満です。みんながみんな自分たちだけのことを考えているようで不快です。政治とは、国民全体のことを考える制度のはずで、決して自分たちだけが「得をするため」のものではないはずです。それをするなら社会は崩壊するでしょう。
 今回、自民党支持から民主党支持に変更する組織や団体は、将来、自民党が政権を取り戻したときにいったいどのように動くのでしょう。また自民党支持に変更するのでしょうか。
 なんども書きますが、僕は組織票に疑問を持っています。百歩譲って組織票に意義があるとするなら、その組織のポリシーは筋を通してほしいと思います。「我が組織は○○の考え方に賛同するから○○を支持する」といったポリシーを持ってほしいと思います。「政権党だから」という理由だけではあまりに節操がありません。
 実は、これは政党にもいえることで、各政党も国民が投票してくれそうだからという理由でマニフェストを作るのではなく、「自分たちは○○な社会、制度を目指している」党だから投票してほしい、と訴えるべきです。もちろん、「ポリシーに固執する」ことはもしかすると存続を脅かされる可能性もあります。しかし、歴史的な長い目で見るとき、そのポリシーが正しいならきっと評価されるでしょう。あのモーツアルトは生きているときは評価されず、評価されたのは死去したずっとあとになってからだそうです。
 ところで…。
 トヨタ自動車社長の対応がジタバタしています。結局は、米国議会の公聴会に出席するようですが、委員会からの要請がくる前に出席を決めるべきでした。
 新聞報道によりますと、当初「米国に詳しい米国法人の社長が公聴会に出席したほうが、適切な受け答えができる」と考えていたようですが、「反感を持たれる」可能性には思いが至らなかったのでしょうか。
 豊田社長の周りにはいろいろな部下や側近たちがいるはずです。当初に出席を回避する決定をした背景には、「社長を守る」「公聴会で批判される姿を見せることがリーダーとしての牽引力を失墜させる」といった理由があったようです。もし、これらの理由が本当なら社長の周りには茶坊主の部下・側近しかいないことになります。しかも、現在の状況におけるトヨタ自動車の立場を正確に把握できていない部下・側近たちです。たぶん、父上である章一郎氏であったならすぐにでも出席を決断していたでしょう。
 豊田社長は米国法人の社長経験もありますので英語は堪能でしょうが、是非とも公聴会では日本語で通してほしいものです。新聞を読みますと、公聴会は一種の「政治ショー」と化しているようですので、不用意な一言が命取りにもなりかねないからです。
 しかし、それよりも大きな理由は「ポリシー」です。日本人としての「アイデンティティ」です。政治ショーと化している公聴会におもねる必要はありません。米国におもねる必要もありません。日本を代表するトヨタ社長として毅然とした態度で臨み、そして乗り切れたなら、必ずや米国の翌日の新聞には「SAMURAI」の文字が踊っているでしょう。
 じゃ、また。




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