<神様になりたがる人々>

pressココロ上




 先日、テレビを見ていましたら子供がインタビューを受けている映像が流れました。なんのインタビューかは見そびれましたが、子供がマイクに向かって無邪気に答えていました。
「○○になって、目立つ人になりたいですぅ」
 『目立つ人』。屈託のない笑顔で恥ずかしそうな素振りも見せず叫んでいるようすは微笑ましい感じがします。大人になると、心に思っていてもなかなか言える台詞ではありません。なにかの本に書いてありましたが、「人間には、誰しも他人から認められたいという欲望がある」そうです。歌手のユーミンは「前に出る人」と表現していましたが、言い方は違ってもつまりは「有名人になりたい」ということです。そうした人間の素の欲望をいともたやすく口にできるのは子供の特典でしょう。
 子供から少し成長した若い人でも、やはり有名人願望はあるようで芸能人のオーディション番組などには多くの若者が挑戦しています。その中から選ばれた人だけが有名人への入口に立つことができます。しかし、その先はまだまだ困難が待ち構えていますから、その困難を乗り越えられた人だけが有名人になれます。しかし、その確率はとてつもなく低いものです。
 有名人になったなら、ファンがつきます。というよりは、ファンがつくから有名人になれるのでしょう。そのファンの中でも特に熱心に応援する「おっかけ」と言われる人たちもいます。ここまで熱中する人たちはただのファンではありません。そうした人たちにとってはその有名人はまさに神のような存在です。ファンが夢中になる有名人は神にまでなっていますから、なにがあろうと裏切ることはありません。神は裏切ってはいけない存在なのです。
 神としてあがめるまでファンになったのは、神が生み出す作品に対して共感するものを感じるからです。そこには、神および神のスタッフが作り出すマーケッティングが作用している部分もあるかもしれませんが、基本的には神やその作品に対する「思い入れ」という感性の占める割合が大きいように思います。仮に、マーケティングの効用が大きいことが理由で神になった場合は短期間の神で終わってしまうのではないでしょうか。本当の神は永続性がなければなりません。
 このように、芸能関係の神はファンの自然な気持ちに後押しされて作られることが多いように思います。それを実現するためには「作品のよさ」は必須条件です。いくら神自身に魅力があろうとも生み出す作品に共感するものがなければ神にはなれません。しかし、違う業界においては必ずしもそうとは言い切れず、マーケティングの占める割合が大きい例もあります。それは芸能人のように作品といった確たる対象物となるものがないケースです。
 約15年前、オウム事件という新興宗教団体が起こした事件がありました。その後もたびたび同じような宗教がらみの事件は起きています。芸能人の作品のような具体的な対象物がなく、たんに精神的な教えだけで神になろうとするのはいつかは破綻するしかないことを示しています。新興宗教の創立者といえども、元々は神ではなく人間なのですから仕方のないことです。人間は神ではありません。
 しかし、財界に目を向けますと「神」と呼ばれる人が幾人かいます。例えば、「経営の神様」といえば松下幸之助氏の代名詞です。松下氏が「神様」になってかれこれ30年以上は経つのではないでしょうか。僕が社会人になった頃でさえ、もう既に松下氏は「神様」になっていましたからかなり長い間、「神様」になっています。
 「神様」は、いくら「自分は神様」と言っても周りが認めなければ「神様」になれません。つまり、「神様」は周りの人たちが作ります。そこにはやはりマーケティングが必ず必要です。「神様」の周りの人たちがマーケティング力で社会に訴え続けることが欠かせません。それが成功して初めて人間が「神様」に成り得ます。
 「神様」は塾を開くのを好むようです。財界では、名を成した多くの経営者が塾を開いています。松下氏の松下政経塾はつとに有名ですが、このたび日航の会長に就任した稲盛氏も盛和会という塾を開いていますし、その他にもシダックス志太勤氏の志太拓世塾など数え切れないくらいあります。財界には塾の数だけ「神様」がいます。
 「神様」は誰の下にもつきません。常に頂点にいる必要があります。頂点にいるためには、塾などのような組織、団体を自ら作ることが必須条件です。自ら作った組織・団体ですから頂点で君臨していられます。これはなにも財界に限ったことではなく政界でも同様です。政界でも実力者と言われる人たちが若手を集め勉強会と称して塾を開いている例が数多くあります。こうした例を見ていますと、人間は、お金も持ち、地位も得、社会的名声も博したあとは「神様」になることが最後の望みのようです。
 起業をして成功を収めている経営者は本を出版する人が多いようです。僕には、これも「神様」になるための1つのマーケティングのように映ります。ある経営者は題名に「降臨」といった文字を使っていますが、これなどは明らかに「神様」を意識した題名です。この経営者が松下氏のように長期間「神様」でいられるかどうかは、今後の企業の業績とともに効果的にマスコミを利用できるかどうかにかかっています。
 「神様」とまではいかなくとも、普通の人より一段高い位置にいたい、と考える人は多いようです。会社の中でも、肩書きなどですぐに上から目線で接しようとする人は少なくありません。また、弁護士など難関試験に合格してからでないと就けない職業の人たちも意識的に上から目線で接しているように見えます。そういった人たちは普通の人より高い位置にいることを普通の人に意識させるような振る舞いを心がけます。これも1つのマーケティングです。
 以前、顧問をお願いしていた税理士さんは女性の方でしたが、顧問料を直接受け取るこを避けていました。必ず経理担当の女性に渡すようなシステムにしていました。顧問料を受け取る際は、やはり「お礼を言い、お辞儀をする」形になりますが、それを「しないで済むよう」に考えた工夫だろうと想像しています。「お礼を言い、お辞儀をする」行為は、自分を高い位置に留まらせておくには相応しくない行為です。税理士さんの中には、顧問先を「指導するのが仕事」だと考えている人もいますが、そうした人たちは顧問先と同じ位置にいてはならないと考えるようです。確かに、「指導する」人は高いところにいなければ威厳を保てません。
 人間は高いところにいると、とても気分がいいものです。なにしろ他人から見下されることがありません。自分の自尊心が満たされるのは間違いないでしょう。その高いところのさらに上にいるのが「神様」です。功成り名を成し遂げた成功者が「神様」になりたがるのも頷けます。
 このように世の中には「神様」なりたがる人がたくさんいます。でも、僕にはそういう人たちが「自己顕示欲が強そうな人」に思えて好きになれません。だいたい「かみ」という言葉で呼ばれる人にはあまり好い人がいないように思います。僕の「カミさん」を見てると…。
 ところで…。
 労働厚生省の元課長・村木氏の裁判を見ていますと、近年の検察に対する不信感が増してくるように感じます。
 この裁判についてかいつまんで説明しますと、郵便を送るには郵便代がかかりますが、ある一定の要件を満たしますと「割り引き」をする制度があります。この裁判では、ある団体が「障がい者割引」を受けるために虚偽に基づいた事実で村木氏に便宜を計るよう依頼し、村木氏が虚偽と知りながら便宜を計ったということでした。
 起訴した段階では、元部下や元上司などが「村木氏の指示による」と証言していましたが、裁判ではそれらの証言を「検事に迫られたため」とか「検事の作文である」などとことごとく翻しています。
 僕は、検察の取調べを体験した人が書いた本をいくつか読んでいますが、そこには「検事が無理やり供述をとっているようす」が書かれています。そうした本を読んでも、僕としては「話、半分」として捉え、検察の強引な取り調べがあるにしても「事実を曲げてまでは」供述書を作成しないもの、と考えていました。
 しかし、今回の村木氏の裁判をみていますと、供述書という証拠は「検察の作文」でしかない、という思いが強くなってきます。もし、「検察の作文」だとするならば、そこまで強引にできる検察官の自信はどこからくるのでしょう。最難関の司法試験に合格したというエリート意識が為せる業でしょうか…。僕には、エリート意識とは自らを「神」と思う意識にも通じているように感じられてしまいます。でも、そんな「神」意識なんて、辞令という「紙」一枚で人事移動させられるのに…。
 じゃ、また。




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