<当たり前>

pressココロ上




 今の季節になりますと、街中の風景も「変わり目」を映し出します。4月を迎えるにあたり転出する人あり、反対に転入してくる人あり、です。僕の店でもそうしたことを実感することがあり、今まで定期的に来店していた人の姿を見かけなくなったりします。たぶん、学生生活を終えて地元に帰ったのか、または就職に関連して転居したりしたのでしょう。
 僕の店は住宅街にありますので、周りにはマンションやアパートがたくさんあります。不動産会社の人と思われる人に案内されて歩いている親子を見ていますと、東京という新天地で新しい一歩を踏み出す若い人の新しい生活を思い浮かべます。隊列の一番うしろを歩いている彼や彼女は、これからどんな生活を過ごすのでしょう。
 18才で親元を離れて一人生活をするのは悪いことではありません。間違いなく成長します。今まで「当然」と思っていたことが、実は「当然」ではなかったことを知ります。今までは、家に帰ったらご飯が用意され、好きなときにお風呂に入り、といったなにげなくやっていたことが「なにげなく」では済まなくなるからです。部屋の蛍光灯が切れたなら自分で買いに行き自分で付替えなければなりません。そして、その蛍光灯が使えるのは電気代を払っているからです。電気代も自分で支払いに行かなければなりません。そうした生活するうえでの細細とした雑用を全て自分でしなければならなくなります。成長しないわけがありません。
 冒頭に書きましたように、地方から出てくる人は住まい探しを親御さんが付き添っています。親御さんにしてみますと、やはり心配ですから当然です。18才という大きな子供ですが、いつまでも子供であることには変わりありません。親の愛情です。親が子供に無償の愛を提供するのは、義務というものではなく遺伝子に組み込まれた要素と言ってもいいでしょう。ありきたりな言い方でいうならやはり「当たり前」という表現がぴったりです。
 その「当たり前」のことを「当たり前」と感じない、または思わない親が最近増えています。今年になり続けて報道されているように感じるのですが、親による子供の虐待事件です。僕はこうした事件に接するたびに居たたまれない気持ちになります。
 報道された虐待事件の1つでは、虐待されていた子供が「親をかばって」いました。そのニュースを聞いたとき、僕は鳥肌が立つほど悲しくなりました。日常的に虐待を受けていたにも関わらず、身体のあちこちに痣を作っていたにも関わらず、ご飯さえまともに食べさせてもらえなかったにも関わらず、親をかばっていたのです…。
 いったいこの子の親はなにを思い、なにを考え子供を虐待していたのでしょう。普通の親が「当たり前」に思うことが、「当たり前」でないのです。もし、親というものに資格があるなら、絶対に資格など与えてはいけない親たちです。
 数年前のコラムで書いたことがありますが、僕はラーメン店時代に未成年者が入所する刑務所に勤務している方とお話しする機会がありました。そのときに僕は日ごろから考えていたことを尋ねました。
「犯罪を犯す子供の本当の責任はその子供の親にあるように思うんですけど…」
 その方も同意見のようで、犯罪を犯す子供たちは全員といっていいほど親に問題がある、と話していました。世の中から犯罪をなくすには、親世代がしっかりと親業を果たすことが「当たり前」の役割です。
 僕は、児童虐待の事件に接するとき、あと1つ疑問に思うことがあります。
「なぜ、児童を救えなかったのか?」
 ある児童虐待事件は、子供が通っていた歯医者さんが「虐待に気がつき」所管の児童センターに連絡をしたことが発端でした。通報を受け、学校関係者はもちろん児童虐待に対処する公的機関も一応は動いていました。にも関わらず、命を救えなかった…。
 僕はこうした大人たちの仕事ぶりに不満です。この子供の命が失われたのは周りの大人たちの責任です。あとからの関係者たちの記者会見では、みながみな、ほかの所管の担当者が「なんとかする」と考えていたようでした。責任をなすりつけあっている構図が見えます。僕は不快です。なぜ、関係者のみなさんは「自分の仕事を一生懸命やらない」のでしょう…。
 子供一人の命がかかっている、とは考えなかったのでしょうか。専門家の方たちは、少なくとも一般の人よりは虐待の予兆がわかるはずです。僕からしてみますと、面倒なことに関わりたくない、という無意識な意識が働いていたとしか思えません。なぜ、自分の仕事に対して責任を持たないのでしょう…。どんな仕事であれ、その仕事を一生懸命働くのは疑問の余地がないほど「当たり前」のはずです。
 僕は50才を越えていますが、僕が学生時代は電車内で「ものを食べたり」「化粧をする」ことは顰蹙を買う行為でした。しかし、今は違うようです。まだ、違和感を持つ意見が多少は発せられますが、昔よりはよく見かける光景です。つまり、「当たり前」の基準が少しずつ変化していることを示しています。人間の価値観は人により様々ですが、価値観とは「当たり前」の基準と言ってもいいのではないでしょうか。そうであるならば、現在よく言われる「価値観の多様化」といった場合、社会における「当たり前」の基準はどこに落ち着けばよいのでしょう。
 世界を見渡しますと、争いが絶えません。その根源的理由は「当たり前」の基準が違うことにあるように思います。イデオロギーが違い、文化が違うなら「当たり前」の基準が違っても当然です。しかし、気をつけなければならないのは、悪の権力者は「当たり前」の基準を恣意的に作り出すことです。かつてナチスは「ユダヤ人を虐殺すること」が「当たり前」でした。大切なのは、平和な社会を目標とした「当たり前」の基準を各人が考えることです。間違っても、上からの強制によって「当たり前」の基準が決められることがあってはなりません。
 「当たり前」の基準は、時代の変遷とともに変化するものです。僕が子供の頃、「当たり前」は「クラッカー」でした。しかし、今の時代にそんなことを言っても若い人は誰もわからないでしょう。…先月、藤田まことさんがお亡くなりになりました。
 ところで…。
 先週は、年に1回の結婚記念日でした。妻の記憶によりますと29回目だそうです。「愛は3年経てば冷める」が僕の「当たり前」ですが、冷めたあとも26年も結婚生活を続けていることはすごいことだと妻ともども思っております。
 よく言われる言葉に「夫婦も所詮は赤の他人」などという言い回しがありますが、わが夫婦の場合は、「真っ赤な他人」のほうが相応しいほど性格の不一致があります。そのような夫婦ですから、本来はいつ破綻してもおかしくないのですが、それでも一緒に暮らしているのは隣にいることが「当たり前」となっているからです。
 このことは平和な世界を作る参考になるかもしれません。例え、憎しみ合っていても「当たり前」は共有することができる、という例になりますから。
 じゃ、また。




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