<値打ち>

pressココロ上




 亀井大臣が辞任をしました。今国会で郵政改革法案が成立しないことが理由のようですが、そもそも、この法案に限らず国民新党の掲げている政策は、民主党とは相容れないように思います。その意味では、「理にかなった」展開ではないでしょうか。亀井大臣にしてみますと、国民新党の1丁目1番地の政策である郵政改革法案が成立しないなら、大臣の椅子などなんの値打ちもないのでしょう。
 僕はへそ曲がりです。ですから、流行しているものに対して距離を置くことが習わしとなっています。この性格は小さい頃からのようで、小学生の頃、ローラースケートが流行っていたときも、みんながローラースケートで遊んでいたときに、僕が遊んでいたのは「竹馬」でした。こういう性格ですから、もちろん友だちは多くはありませんでした。
 流行を追うことに抵抗感がありますから、行列ができるラーメン店なども冷めた目で見ています。ラーメン店に限らず、元来、最初にできる行列は「作為的に」作られていると考えていますので、信用していません。先日のipadにしましても、どこまでが本当の行列が疑っています。
 このようなへそ曲がりですので、現在流行っているツイッターなども利用していません。もし、利用するとしたなら1年後くらいでしょう。それくらいの月日が経ったときに、ツイッターの本当の値打ちが決まっているはずです。仮に1年後に、利用者が少ないなら「値打ち」がなかったことになります。「値打ち」を測るのには「月日が流れる」のが最も適しています。
 大分以前、アルフィーの坂崎さんが話していました。
 その当時は、昨年事件を起こしました小室哲也さんが絶頂期でした。出す曲がことごとくヒットをしていた頃で、中にはミリオンセラーの曲もありました。そうした中で、視聴者から「ミリオンセラーになった曲はいい歌か?」と質問がありました。それに対して坂崎さんは答えました。
「昔は3万枚売れたら『ヒットした』と言っていたし、10万枚なんか売れたら『大ヒット』だったんだよね。今のミリオンに比べたらほんのわずかでしかないけど、だからと言って今の歌と比べて昔の歌が『いい歌じゃない』とは言えないと思うんだ。…だから、たぶん、『いい歌』っていうのは『ずっとあとまで残る歌』じゃないかな」
 この話を聞いたとき、僕は納得できましたし、つまるところ「歴史という荒波に揉まれても生き残っていけること」が「いい歌」の条件であるように思います。
 それはともかく、へそ曲がりの僕はツイッターを利用していないのですが、数年前から若者がよく利用していたyou tube も利用したことがありませんでした。これは別に意識して利用していなかったわけではないのですが、別段利用する必要性も機会もなかったからです。
 ところが…。
 僕はふいに歌が頭に浮かぶときがあります。なんの脈絡もなく、そのときの状況に関係なく歌が浮かびます。そうしますと、当然、歌を口ずさみます。もちろん、僕のことですから、歌詞などは適当なのですが、そのときに限って「正確な歌詞」が知りたくなりました。早速、帰宅したあとネットで検索してみますと、いろいろな歌詞を調べることができるサイトが検索結果に表示されました。
 そのとき、僕は単に歌詞を知りたかっただけだったのですが、表示された幾つかをクリックしていましたら、偶然、you tube のサイトにたどり着きました。恥ずかしながら、そのときに初めてyou tube を実際に見たのでした。正直、驚きました。歌詞だけでなく、楽曲まで聞くことができ、しかも本人が歌っている映像もあったからです。
 それまで僕は聞きたい楽曲(僕の場合はかなり古い曲ですが)があるときは、ツタヤやブックオフなどで探すのが常でした。できるだけ出費を抑えようと考えてのことですが、昔の楽曲ですので見つかることは稀で望みがかなうことはあまりありませんでした。しかも、見つかったとしても、そして出費を抑えられたとしてもお金を使うことには変わりません。それに比べ、you tube では無料で聞けるのです。これほどうれしいことはなく、それ以来、昔の好きな曲を見つけては聞いています。
 無料で好きな曲が聞けるのは、利用者にとっては喜ばしいことですが、楽曲を作る人たちや提供する人たちにとっては悩ましい状況です。こうした人たちは楽曲が売れることが収入に結びつきますが、その楽曲が売れないことになるからです。
 昨年あたりから、「フリー」という言葉に象徴されるような、「無料で提供」されるやり方に注目が集まっています。googleやyou tube に代表されるように、ネットの世界では特に顕著ですが、「無料で提供」するのが当然のように考えられています。しかし、無料で提供して経営的に成り立つわけはありません。各企業は思考錯誤しているのが現状です。
 先日、ピアニストのフジ子・ヘミングさんの本を読みました。その中に「一文の値打ちもない」というフレーズが出てきました。フジ子さんは売れない時代が長かったのですが、その当時はレコードを出すどころか、コンサートを開くことさえできなかったそうです。フジ子さんによれば、いくらピアニストとして優れた技術を持っていようが、コンサートを開けなければ、その技術は「一文の値打ちもない」のと同じだそうです。
 この「一文の値打ちもない」というフレーズは昔から使われるフレーズですが、このフレーズに「本来あるべき真実」が込められています。
 「値打ち」を辞書で調べますと、「その物や事柄がもっている価値」と書いてあります。つまり「一文=価値」です。価値はお金に換算できるのです。そして、価値はお金に換算されて初めて生まれるのです。
 ホリエモンさんや村上さんたち、「金儲け至上主義」を標榜していた人たちが司直の手に落ちて以来、「お金を得る」ことを罪悪感とつなげる風潮があります。「フリー」という言葉が支持されたのも、こうした流れと無縁ではないように思います。
 ですが、モノを作った人たちが、その行為に対して金銭を求めるのは当然の主張です。また、本当にモノに対して、またはモノを作った人に対して評価を与えるなら金銭を払うのは利用者にとっても当然の行為でなければいけません。そうしないなら、利用者は評価したことにはなりません。
 皆さん、本当に評価をするなら、お金を払いましょう。ただ、問題なのは「価格」なんですよねぇ。儲けがあまりに大きいモノにお金を払うのはやはり抵抗が…。
 ところで…。
 僕は読み終えた本はブックオフに売っています。今年に入って既に2回売りました。たくさんの本を収納する場所がありませんし、読み終えた本はほとんど読まないからです。ただし、保存しておく値打ちがあると思える本だけは整理をして置いてあります。
 本好きの人は、本を売ったり処分したりすることに抵抗感がある人が多いようです。蔵書が数万冊もあることを自慢している人もいますが、図書館や本屋さんをやるのでもなければ持ち続けている意味がないように、僕などは思ってしまいます。単に、自己満足の世界に過ぎない、と言ったら本好きの人に怒られるでしょうか。
 ですが、たぶん、二度と読まない本がほとんどでしょうし、もしなにかの参考にしたいとしても、よほど上手に整理をしていないと、どこに置いてあるかを探すのにさえ一苦労のはずです。また、整理するにしてもかなりの時間を取られるのは間違いありません。やはり、職業にしている人以外は、本を収納しておくのは意味がないように思います。
 本屋さんの棚を見ながら題名を追っているのは楽しいひとときです。そのときに「お、これは」と思う本に出会ったときは感動ものです。ただし、問題がないこともありません。それは、気に入った題名を手にしたとき、「前に読んだことがありそう」と思えるときです。読んだ本をすべて覚えているわけではありませんので、重複して買ってしまうこともたまにあります。読み進めている途中でそれがわかったときはショックです。なんか無駄な時間を過ごしたようで後悔の念が沸き起こってきます。
 先日も、ブックオフで題名を追っていたときに、僕の好みに合う題名に出会いました。僕は本を手に取り、「前に読んだことがないか」確かめることにしました。まず、表紙を確かめ、著者名を確かめ、記憶をたどりました。その時点では、まだ確定できませんでした。それから表紙をめくり、そして次のページをめくったとき、そのページの隅に書かれてある文字に僕の目は釘づけになりました。なんと、そこには僕の筆跡で僕がメモした文章が書いてあったのです。
 僕は本を読みながら気に入った語句やフレーズ、または簡単な感想を本にメモしています。その本には、そのメモがそのまま残っていたのです。しかも、今年になって売った本です。このときの気持ちは複雑です。なんか懐かしいような、損したような、言いようのない感慨に包まれました。…僕のメモが残されたままの本は、値打ちが上がったのか下がったのか…。
 じゃ、また。




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