「悪はなくならない。だって、正義がいくつもあるから」 satoaki
今週の表題は、ハーバード大学教授マイケル・サンデル氏の著書のパロディです。この本の題名は「これからの『正義』の話をしよう」なのですが、売れているそうです。売れたきっかけはNHKでこの教授の授業を放映したからです。ご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
サンデル教授の授業は学生に人気があるようで、受講希望者が多すぎて抽選まで行われているそうです。講義内容は政治哲学なのですが、一般に大学授業で行われている哲学史などを教えるのではなく、現実社会における具体的な事例を取り上げて学生に問い掛ける形式のようです。例えば…、
「アフガンのヤギ飼い」
あなたが仲間の米兵3人とタリバーン支配地域に潜入中、ヤギ飼いの農夫とでくわした。仲間は「殺さないとタリバーンに通報される」と訴えたが、あなたは「キリスト者として殺害は避けたい」と農夫を逃がした。まもなくタリバーン兵が現れ、仲間は3人とも殺された。あなたの判断は誤りだったか?
(朝日新聞より)
このような具体的な事例について学生が自らの考えを発表し、みんなで討議をする授業構成だそうです。
僕が最初にこの本を知ったのは本屋さんの平台でした。そのときは一風変わった題名に気を取られただけで、手にしてページをめくることはしませんでした。まだ、今ほど注目を集める前でしたので、出版界によくある「注意をひく題名」をつけることで売上げを計ろうとする本のひとつにしか思わなかったからでした。
それにしても、この本の編集者のセンスは賞賛されて然るべきものがあります。誰が、大学教授の授業がそのまま本になるなどと考えるでしょう。僕はこの本の内容を知ったとき、養老孟司さんの「バカの壁」を作った編集者を思い浮かべました。
この教授が学生に問い掛ける難問は正解がないような問題です。それは、ある面では正しい考えであっても、反対側から見ると正解と言いきれない解答だからです。こうした簡単には答えが見つからない難問を学生がみんなで討議をするのですから、授業の目的は「とにかく考えること」に重点を置いているように思います。
教授はいろいろな難問を投げかけますが、それらを読んでいて僕はあることを思い出しました。
「これって、一昔前、ラジオなどでブームになった究極の選択と同じじゃない」
どちらの選択をしても、結局は100%幸せにはならない、まさしく究極の選択です。仕方なく選ばざるを得ないから選択するもので、本当は選択などしたくない選択です。
そう考えたなら、哲学などと高尚な学問でもなく、普通の人が生きていく中で目の前に現れるいろいろな問題に対処すること大した違いはない、と言えなくもありません。たぶん、ハーバード大学などに行かなくとも、つまりエリートの人だけが行なっている高邁な行為ではなく、普通の人でも必ず行なっている行為でもあります。
ですが、その対象が「正義」であるところが、この問いかけのミソです。普通の人は、生活する中で究極の選択を迫られることはありますが、「正義」などといった小難しく抽象的な問題について究極の選択をすることや考えることなどはしません。
さて、毎年8月は戦争にまつわる記念日が重なる月です。広島、長崎の原爆記念日、そして15日の終戦記念日があります。普段は戦争について考えることなどありませんが、1年に1度くらいは考えてもいいのではないでしょうか。それで、今週は「戦争」です。
僕は前にこのコラムで、沖縄米軍基地問題に関して、「沖縄の人たちの苦悩を本土の人たちが同じように悩むことは無理ではないか」と書いたことがあります。戦争についても、同様で、戦争を知らない、また体験していない人たちが戦争の悲惨さを心の底から理解することは無理なように思います。
そこで、「語り継ぐ」という行為が尊重されるわけですが、実は、これにもある種の不安を感じています。やはり、前にこのコラムで書いたことがあるのですが、「記憶は嘘をつく」という問題です。確か、養老孟司先生の考えを紹介しながら書いたように思いますが、意図するしないに関わらず「人間の記憶は変化していく」という提言でした。僕はこの提言に賛同する気持ちがありますので、記憶はあてにならない、と考えています。
この提言を踏まえて戦争を考えるなら、「語り継ぐ」行為に不安がなくもありません。「語り継ぐ」内容の正誤を問うことはタブーのような雰囲気がありますが、戦後から時間が経てば経つほど「記憶は変化して」いても不思議ではありません。
だからと言って、僕は「語り継ぐ」行為を否定するものでもありません。「語り継ぐ」人たちには戦争を体験したことによるいろいろな思いがあるのは間違いありません。そして、その思いをこれからの世の中に続く若い人たちに伝えることは意義があると思っています。しかし、その思いが戦争全てを表しているとして伝えることには違和感があります。「語り」を受け取る人たちは、「語り継がれる」内容はあくまで戦争の一つの見方に過ぎない、という冷静でバランスの取れた感性で受け取ってほしいと思います。
数年前から、僕の店の前をいろいろな国籍の人たちが通ります。正確な国籍まではわかりませんが、アングロサクソン系の欧米人やアジアのインドの方、パキスタンの方など様々です。その中でとりわけ多く見かけるのは、隣国である中国や韓国の方々です。
隣国である韓国や中国と日本の関係は微妙なものがあります。言わずもがなですが、先の戦争の傷跡があるからです。戦後65年経っても、この傷跡は両国との関係に微妙な影響を与えているのが現実です。
先日の広島での原爆式典に初めて米国の駐日大使が出席しましたが、米国内ではこの行動自体がとても難しい問題のようです。謝罪と受け取られることに非常に敏感になっていますが、仮に、少しでも謝罪の側面が表れたならオバマ政権の運営に大きな支障をきたすことにもなりかねません。このように、原爆の扱いひとつ取っても捉え方に正反対な考えがあります。オバマ大統領がいくら核廃絶を訴えようが、簡単にことが進まないのはこうしたことに理由があります。
僕が店の前で韓国や中国の方たちを数多く見かけるのと合わせるように、現在、政治の世界とは離れた分野で人々の交流が盛んになってきました。また、テレビなどから得る情報では、韓国では日本のアイドルが人気を集めているようですし、中国でも同様のようです。このような現象は、特に若い人たちに見られる傾向です。しかし、もし両国内で先の戦争での日本軍の蛮行を「語り継ぐ」行為が心の奥底にまで刻み込まれるほど強烈に行なわれていたのなら、このような現象は起きないでしょう。こうした若い世代の交流は、過去の傷跡が薄れているか、もしくはあまり気に留められていないことが大きな要因であるように思います。
僕は、加害者であろうと被害者であろうと、あまりに過去にこだわることは将来の展望を暗くする効果しか持たないように思います。加害者の立場で相手と対するとき、心の中に負い目がありますから、どこかよそよそしくなり決して胸襟を開いた関係にはなれないでしょう。また、被害者の立場で相手と対するとき、心の中にいつまでも憎しみや恨みが残りわだかまりなく接することはできないでしょう。未来を明るい関係にしたいなら、過去ではなく未来に目を向けることが大切なような気がしています。
しかし、かつて西ドイツのヴァイツゼッカー大統領は「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目となる」という名演説で、ナチスが犯した罪から目を逸らさないことの大切さを説きました。それを聞いていると、それも一理あるなぁ、というのが正直な感想です。
う~ん。答えは簡単にはでない…。
ただ、これだけは言えると思います。
「長続きしないのは、愛と同情」
ところで…。
今週は戦争について考えるコラムでしたので、最後も、戦争についての究極の選択問題です。
(1)いかなる武器による戦争に反対するとき、第三国に侵略されたとしても戦わないのですか?
(2)専守防衛を唱えているとき、日本に狙いを定めている原爆ミサイルが敵国内にあった場合、その敵国に攻め入って原爆ミサイル発射をさせない行動を取らないのですか?
戦争について、1年に1度くらいは考えましょう。
じゃ、また。