<噂と真実>

pressココロ上




 先週の終わりに、元厚生労働省局長村木氏の事件について書きましたが、この事件が思わぬ展開を見せています。事件を起訴する側である検事がこともあろうに証拠を改ざんしていたことが表面化しました。先週も書きましたが、人ひとりの自由を奪う権限を持っている検察が嘘の事実をでっち上げるなら法の正義などなくなってしまいます。徹底的な真相解明をしてほしいものです。
 今回の改ざん事件をスクープしたのは朝日新聞のようですが、こうした報道こそ第4の権力と言われるマスコミの真骨頂と言えます。以前、筑紫さんが「スクープとは、時間が経過すればいずれわかることを他社よりも早く報じることではなく、いくら時間が過ぎようとも表に出るはずがなかったものを報じることこそスクープといえる」と語っていました。今回の改ざん報道はまさしくスクープに値する報道でした。
 新聞など大手マスコミでは目にすることはあまりありませんが、刑事事件の被告人となった方が書いた書物などを読んでいるときに、よく目にする語句に「検察ストーリー」と「国策捜査」があります。
 「検察ストーリー」とは検察が考える事件の構図です。本来は、証拠に照らし合わせながら事実をつなげてストーリーを作り上げるのが正しい「検察ストーリー」のはずです。しかし、冤罪事件では検察が憶測で考えたストーリーがそのまま事実となっていました。そこには「証拠の裏づけ」という事実の根拠となるものがなにもありませんでした。
 すぐに思い浮かぶのは、これまでにこのコラムでなん度も書いています足利事件であり、鹿児島県志布志市の選挙違反事件です。少し遡れば、新潟県での婦女暴行事件で犯人とされ、刑期を終えたあとに真犯人が現れた男性もいました。これらの事件はどれも事実がないがしろにされ「検察ストーリー」に沿って無理やり調書が作られた事件です。
 「国策捜査」とは、世の中の流れを変えるための捜査と言えます。わかりやすく言いますと、ある出来事を犯罪とすることでその出来事が世間一般に受け入れられることを抑止する意図がある捜査です。見方によっては一罰百戒という意味もあるでしょう。「国策捜査」は、社会の風潮・考え方の基準を変える意図があります。僕が「国策捜査」という言葉を意識するようになったのは、外務省の元官僚だった佐藤勝氏の「国家の罠」という本を読んでからです。佐藤氏は、先日罪が確定した鈴木宗男氏の右腕と言われた方ですが、佐藤氏は取り調べの中で実際に検事の口から「この事件は国策捜査だ」と言われたそうです。このような言葉を口にすること、そのことが検察の傲慢さを表しています。
 「国策捜査」は、ある意味、検察が世の中の正義を決めることでもあります。どんな出来事でも「犯罪にあたるか否か」という微妙なゾーンがあります。いわゆるグレーゾーンですが、そのグレーゾーン内の線引きを検察が行なうことが「国策捜査」と言ってもいいでしょう。
 例えば経済活動においては、真面目にコツコツやる人が損ばかりをする世の中は「好ましい社会ではない」という側面があります。要領よく犯罪すれすれの行動をとる人だけが冨を増やす社会は普通の人たちにとって好ましい社会とは言えません。この犯罪すれすれの領域にある経済活動を犯罪にすることで社会の認識を変えようとすることが「国策捜査」です。考えようによっては、好ましくない社会にしないことを目的とするなら、「国策捜査」にも一理あるかもしれません。ですが、そういった判断を検察独自で下すことには問題があります。理由は簡単です。検察は神様ではないからです。
 検察が神様でないのは、今回の「証拠改ざん」事件を見れば明らかです。神様は「自分の都合のために他人を貶める行為などしない」ものです。そのような卑怯な行為をするのは神様ではありません。
 足利事件や新潟の事件は、あとから真犯人が現れたことが発端ですが、志布志市の選挙違反事件は様相が異なります。内部告発でした。取り調べのやり方に問題があることを内部の人がマスコミにリークしたのが発端でした。もし、マスコミが大きく取り上げなければ検察ストーリーに沿った調書が作成され、有罪になっていた可能性もあります。
 今回の「証拠改ざん」が表面化したのも、見ようによっては内部告発と言えるかもしれません。朝日新聞の記事を丁寧に読むと、「検事が日付を改ざんした『噂』があった」と報じています。僕は、この「噂」という表現に大きな意味を感じました。
 今から30年ほど前、ロッキード事件の発端となったのは週刊文春の記事でした。ロッキード事件とは、ときの首相が航空機選定において賄賂を受けとっていた、という事件ですが、現在では知の巨人として名を馳せている立花隆氏が世に出るきっかけとなった記事です。この記事が出た当時、大手マスコミに所属する政治部の記者たちはこのように言っていました。
「あんなこと、記者なら誰でも知ってるよ」
 つまり、「噂」です。記者たちは知っていて記事にしなかったのですが、そこには3つの理由があったように思います。1つは、政治家に対する不文律です。不文律とは「政治家については政治に臨む考えや行動についてのみ記事にする」という慣習です。あと1つは、「誰もがやっていることだから記事に値する内容とは考えなかった」発想です。最後の1つは、「記者と政治家の親密さ」からです。つまり、馴れ合いと言ってもいいでしょう。
 大手マスコミが、立花氏が記事にするまで不問にしていた理由が、どの理由が大きな比重を占めていたかは定かではありません。たぶん、これらの理由が複雑に絡み合っていたのが実態でしょう。どちらにしても田中首相の疑惑を「噂」として知っていたのは確かなようです。そうした中、「噂」を記事にするのは週刊誌といえども逡巡があったことは想像がつきます。社長を含めた幹部の間で激論があったはずです。一国の総理を敵に回すのですから当然です。「噂」を記事にするのはとても勇気がいることです。
 翻って、今回の検察官による証拠改ざん事件もキーワードは「噂」です。朝日新聞の記事の書き方から想像しますと、たぶん、他のマスコミもこの「噂」には接していたように思います。問題は、記事にするかどうか、の判断だけだったのではないでしょうか。
 一国の総理を敵に回すのも勇気がいりますが、検察を敵に回すのも勇気がいります。報道以来、他社が後追い記事を書いていますし、テレビなどでも取り上げるようになっていますので、ここまでくれば安心して事件を追いかけることができます。しかし、一歩間違えたなら反対に検察という権力に反撃を受けていた可能性もあります。ここであと一押し、ワイドショーが騒いでくれたなら鬼に金棒です。ワイドショーが騒ぐことは、自らを「高みにいる」と考えている人たちを地上に降ろす効用があります。
 昔から、「噂」に関する格言として「火のないところに煙は立たぬ」と言いますが、「人の口に戸は立てられぬ」とも言います。「噂」には嘘もあれば真実もあります。そうした中、「噂」を真実にできるのは証拠だけです。その証拠を改ざんすることなど絶対にあってはならないことです。
 報道があった日、ニュース23に元特捜部長という方が出演していました。キャスターの「検察を検察が取り調べるという、身内が捜査することの矛盾」の指摘に対して、元部長は「問題ない」と答えていました。しかし、野球賭博で批判されている相撲協会でさえ、調査は外部に委ねています。こうした対応は経済界などでも見られる対応で、自分で自分を調べるやり方では第三者から信頼を得ることはできません。ここは、プライドを捨てて外部の人間に捜査を委ねるのが適切な対応だと思います。
 文芸春秋の今月号で、村木氏が手記を発表しています。手記を読みますと、検察の問題点が数多く見えます。…本当は、もっと書きたいのですが、コラムが長くなりすぎるのもアレですので、このくらいで終わりにしたいと思います。でも、皆さん、いつ自分が被告の立場になるかもわかりません。検察のあり方、やり方については、もっともっと世論を盛り上げましょう。
 ところで…。
 今回の「証拠改ざん」事件を見ていますと、「取り調べ可視化」の大切さが際立ってきたように感じます。もし、「可視化」が実現されるなら、検察ストーリーに沿うように無理やりな取り調べなどできなくなるでしょう。
 新聞記事で、ある検察幹部が「取り調べが透明化されれば、真相に迫れず政治家の摘発もできなくなる」と不安感を語っていました。しかし、「透明化されたなら起訴できない事件」であるなら、そもそも起訴などすべきではありません。
 検察の人たちは重要なことを忘れています。刑事裁判においては「疑わしくは罰せず」が基本のはずです。ですから、起訴するには「疑わしい以上」の裏づけがある事実が必要です。今回の改ざん事件で自らが「疑われる立場」を経験することによって、検察の方々が今一度基本を思い起こしてくれることを願っています。
 かつて伊藤榮樹検事総長は「巨悪は眠らせない」と検察の心意気を語っていましたが、今のような検察では国民から信頼を失い、「巨悪がほくそ笑む」」となってしまいます。
 じゃ、また。




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