<記事と広告>

pressココロ上




 先週は、コラムの終わりにサッカー日本代表の優勝について書きました。その決勝点を上げた李忠成選手がいろいろなニュース番組で取り上げられていました。その取り上げ方はメディアにより様々ですが、やはり、その出自についてはマスコミが注目したくなるところです。
 しかし、その注目する視点については疑問を感じることがなくもありません。「在日」という言葉の持つ重みを少しでも理解している方なら「帰化」することの重大さを考えるでしょう。ですから、そのような視点で李選手を見ると思います。しかし、そうした認識が全くないか、もしくは全く関心がない人は単に「日本の国籍をとったんだな」という程度の感想しか持たないかもしれません。
 実は、大学に入学した当初の僕は完璧に後者でした。政治的、社会的に難しいことについて全く知らなかったのです。これから書くエピソードは前にも書いたことがあるのですが、やはり、「自分は世の中のことをなにも知らない」と強く認識し、そして反省した出発点の出来事でしたので書かせていただきます。
 大学に入学してまだ日が浅い頃、ある授業で各人が自己紹介をする機会がありました。新入生の親睦を図る意図があったのだと思います。そのときに、学生服に身を包んだ身の丈180cmを越えている金君ははにかんだ笑顔で話しました。
「僕は、大学進学に際し、名前を『金田』にしようか『金』のままにしようか悩みましたが、自分の本来の名前である『金』で通すことにしました」
 もう今から30年以上前のことですので、正確な言葉は忘れてしまいましたが、内容はこんな感じだったように思います。当時、能天気な僕はただ「苗字のことか」と聞き流しただけでした。この言葉の持つ重みを知ったのはずっとあとになってからです。
 この言葉の重みを少しは理解できるようになった今の僕からしますと、李選手に対するマスコミの取り上げ方は気になるところです。
 その李選手がいつも僕が見ているニュース番組に出演していました。出演したのは当然スポーツコーナーですが、キャスターが最後に質問した内容はスポーツとは関係のない話でした。
 キャスターは李選手が「帰化」したことの思いを尋ねました。本来、サッカーをするうえで全く関係のない質問内容です。僕はこの質問をするタイミング、そのやり方に違和感を持ちました。もっと正直に言うなら、嫌悪感を持ちました。
 無理やり「在日」という重たく難しい問題について李選手の口からなにかを語らせようという意図を感じたのです。あの質問のやり方は関心しません。というより間違っています。番組コーナーも終わろうかという時間に短時間で語らせるにはあまりに重い質問です。もし、なにかの弾みで、李選手が在日や一般の方々に対して社会的世間的に好ましくない受け答えをし、問題のある言葉を発してしまったなら李選手のサッカー人生どころか人生そのものに大きな影響を与える可能性さえあります。もし、キャスターがそれを期待しての質問であるならマスコミの世界で生きる人間としては有能の評価を得られるかもしれませんが、僕は人間性を疑います。
 評論家の中には、インタビューの際に刺激的な言葉づかいで相手を感情的にして、本音を引き出そうとする手法を取っている人がいますが、僕はあのやり方が好きではありません。
 僕はこの難しい質問を李選手がどのように受け答えするのか心配しながら見ていました。しかし、その対応はとても素晴らしく、気負った雰囲気もなく自然に答えていたと思います。言葉を変えるなら、「きれいに捌いていた」と言ってもいいのではないでしょうか。
 李選手はお父様を「巨人の星」の星一徹に例えていましたが、あの難しい質問に完璧な受け答えをできるというのは、お父様と普段からこの難しい民族問題について話し合っているからに違いありません。その意味で言いますと、李選手の受け答えからお父様の素晴らしさもわかろうというものです。
 今回の李選手の場合は、たまたま本人がマスコミとの対応の仕方を心得ていましたのでことなきを得ましたが、キャスターの方々はご自身およびマスコミの力の強さを常に認識して質問なり言動をしてほしいと思います。像の鼻息はアリにとっては台風以上です。
 このようにマスコミは力を持っていますが、そのマスコミについて語るとき避けて通れないのが広告です。マスコミといえども、広告がなくなってしまっては存続することができません。今週の本コーナーで紹介しています「使ってもらえる広告 「見てもらえない時代」の効くコミュニケーション (アスキー新書)」はその広告について書いています。
 著者は広告を作る側の人間ですが、広告の必要性に疑問を投げかけることから始めています。そして、最終的なこの方の答えは「使ってもらえる広告」でした。つまり、これまでのような周知させたり訴えたりする広告では広告主や消費者からともに支持されず、今後は「使ってもらえる広告」が主流になる、と主張しています。
 しかし、僕はこの主張に危険な臭いを感じます。僕は以前から、広告の危険性を指摘しますが、それは、広告と記事の区別を曖昧にする危険性です。マスコミが提供する情報が広告か記事かでは受け手は大きく違ってきてしまいます。仮に、消費者が広告を記事だと思ってしまうなら、広告主にとっては利益ですが、消費者にとっては偏った情報を得たことになってしまいます。その状態は、消費者の重要な権利である「選択の自由」が侵されている状態にほかなりません。
 「使ってもらえる広告」とはまさに「記事と広告を曖昧にする」ことのように僕には思えます。もし、これからの広告の未来が「使ってもらえる広告」にしか道が残っていないなら、既に広告の存在価値がなくなったことではないでしょうか。
 ところで…。
 僕が飲食業に身を投じた20年以上前からグルメ番組は盛況を究めていました。放送界には「視聴率に困ったらグルメ番組」という流れが出来ていたように思います。ですが、僕は当時から、このグルメ番組に疑問を持っていました。放映している内容が番組なのか広告なのか判断がつきにくい構成になっていたからです。
 昨年の新聞で次のような投稿を見つけました。
「テレビで紹介していたホテルに宿泊してきたが、実際の食事はテレビとは違っていた」
 最近はテレビや雑誌などで紹介されている内容が実際とは違う、と指摘されることが多くなっています。つい最近も、セレブを紹介するバラエティ番組で「事実と違う」という疑いが報じられました。数年前にも、痩身方法を紹介する番組で「数字を意図的に歪曲」して社会的に批判された番組がありました。このようなことから、最近ではテレビの信憑性が薄れています。また、インターネットの普及が、マスコミの信頼性の失墜に歯車をかけているように感じます。
 インターネットが普及する前は、テレビなどマスコミが伝える情報を一般の人が検証する術がありませんでした。ですが、インターネットの普及によりそれが可能になっています。100%とは言い切れないかもしれませんが、少なくともマスコミとは違う角度で情報に接することができるようになりました。このことは、マスコミ情報を鵜呑みにしてはいけないことを教えていることでもあるはずです。
 しかし、不思議なことに、今でもテレビで紹介されたお店に必ず行列ができています。僕は、それが不思議でなりませぬ。
 これはグルメ番組に限りません。痩身方法を紹介する番組でも同様です。本当に痩せることができるなら、いつまでも痩身番組が続くはずがありません。効果のある痩身方法を1つか2つ紹介するだけでこと足りるはずです。それが、いつまでも新しい痩身方法が紹介されるのは、それまでの方法に効果がなかったことの証です。
 そこで、僕は考えます。
 もしかすると、人々は騙されたがっているのかも…。
 じゃ、また。




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