<無償の愛>

pressココロ上




 今の僕の店は立地的に最悪の場所にあります。ほぼ100%に近い確率で商売的に成り立たない場所で営業しています。ここに移転する前の場所は、今の場所とは正反対で商売の観点で言いますと理想的な立地環境でした。店の前を通る通行人の数でいえば約1000倍くらいの差があります。僕はそのような今の場所を選びました。
 先日、NHKのトップランナーという番組を見ていましたら、荻上直子さんという映画監督が出演していました。「かもめ食堂」を撮った監督といえばおわかりになる方もいるでしょうか。その荻上監督の映画は独特の雰囲気を持っており、ゆったりとした時間の流れが、現実離れしたファンタジーな感じがする映画です。僕は、そういう雰囲気が好きです。
 お店を移転するに当たり、僕は考えました。通行人が少ない場所でひっそりと営業をする。そんな絵本に出てくるようなお店を構えたいな…。
 そして、それを実践したのですが、そんな絵本のようなお店に買いに来てくださるお客様は変わった方が多いです。「変わった」は失礼な表現で、正しくは「優しい」方です。今の時代、消費者が食べ物を購入しようとするときに選択肢はたくさんあります。コンビニもありますし、スーパーもありますし、最近ではドラッグストアでも食料品を売っています。そして、同じ業種でも幾つもの企業がありますので、選択の幅はさらに広がっています。そんな状況の中で、僕のお店のような小さな、そして立地的に不便な場所にある店にわざわざ買いに来てくれるお客様は「変わった」、いえいえ違いました、「優しい」お客様です。そうです。立地が悪いのですから「わざわざ」という表現にぴったりな買い物動機です。そんなお客様が「優しく」ないはずがありません。
 僕は新聞の投稿欄を読むのが好きですが、どの新聞と言わず、ある一定の間隔を開けて似たような内容の投稿が掲載されていることに気がつきました。これが偶然か意図的かは定かではありませんが、定期的に掲載されています。その内容とは、
「大きなスーパーが出来て、小さなお店が廃業に追い込まれる。それが寂しい。だから、自分は意識的に小さなお店で買うように心がけている」。
 僕は、このような投稿が掲載されるたびにいつも思っていました。「こんな優しい人ってどのくらいいるんだろ」。または「本心なのかな」。
 へんぴな場所にある僕のお店に買いに来てくださるお客様を大きく2つに分けますと、「見返り」を前提としたお客様と「純粋」なお客様です。「見返り」とは団体への勧誘だったり、選挙での投票だったりします。このような「見返り」を求めるお客様は定期的に買いに来てくれますが、あくまで「見返り」を求めてこその買い物動機です。それでも、勧誘や投票依頼が強引でないところがせめてもの救いです。
 「純粋」なお客様は「見返り」が目的ではなく「購入」が目的ですから、なんの下心もありません。実は、「購入」が目的でもないのです。本当の目的は、僕のお店の売上げに貢献することが目的です。それは店頭に立ち接客をしていると感じます。このような「純粋」なお客様はその存在だけでもうれしいことですが、中には、差し入れをくださる方までいます。このような方は僕にしてみますと「純粋」のその上を行く「無償の愛」の持ち主と言えるものです。どちらにしましても、僕は、「純粋」な人たちに出会いたくて今の場所に店を出しました。
 しかし、残念ながら…。
 いつの時代も政治の世界は混沌としていますが、政治の世界ほど「見返り」を前提とした活動はないように思います。票や献金を供出してくれる人だけを大切にする政治が大手を振っています。反対に、自分たちだけを優遇してくれる政治家だけを支持する国民がいます。どちらも「見返り」を前提とした行動です。
 今週の本コーナーで紹介しています「反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)」という本は湯浅誠さんという社会的弱者を支援する活動をしている方が書いた本です。湯浅さんやその仲間の方たちも「無償の愛」の実践者と呼んでもいいと思いますが、この本を読みますと、今の社会が歪んでいるように感じて仕方ありません。このような社会になったのは、政治家と国民がともに「見返り」を期待した行動しかとらないからです。
 例えば、非正規社員の不平等な待遇は正規社員の意識や行動と無関係ではありません。もし、正規社員が自分たちだけの「見返り」を考えるのではなく、非正規社員の待遇にも心配りをして行動をとるなら、非正規社員の問題は解消するでしょう。また、政治家が票を期待できる正規社員の集まりである労働組合の意見ばかりを尊重する政策をとらず、正規社員と非正規社員の区別なく労働者全員が公平になるような政策をとるなら、非正規社員の労働環境もよくなるでしょう。
 「自分にだけ」の見返りを期待する行動では、世の中の一部分の人だけが幸せと感じる世の中にしかなりません。もし、政治の世界でも、政治家と国民がともに「無償の愛」で行動するなら、きっと平和で豊かな世の中ができるでしょう。
 先に書きましたように、僕は絵本に出てくるようなお店を作るのが夢でした。その究極の理想の姿は、なにもない野原にポツンと立っているお店です。そのお店にどこからともなく誰かが買いに来る。そんなお店です。夜になると、左右2つの地味なライトが照らす看板を見て、動物たちが珍しそうに、警戒しながら、それでも親しみを持って買いに来る。そんなお店でした。
 さすがに、現実の世界では究極の理想とはいきませんでしたが、少しは理想に近い店を構えることができました。その点はとても満足しています。けれど、こういう店には大きな欠点があります。それは、採算がとれないのです。この欠点は、国営であるなら取るに足らない問題ですが、民間では生死に関わる大問題です。
 日本航空が再建作業を行なっていますが、その一環として、従業員のリストラを断行しました。それに対して従業員の方々が裁判を起こしてまで反発していますが、僕からしますと、その発想は親方日の丸意識でしかないように思います。僕はそれが残念でなりませぬ。
 それはともかく、民間である僕の店は採算がとれないことは致命傷です。そこで、賃貸契約の更新期である来月で閉店することにしました。僕は、つくづく思いました。採算を無視してお店を営業することができたなら、どんなに幸せでしょう。また、こうも思いました。みんながみんな「無償の愛」の実践者であったなら僕のようなお店も続けることができるのに…。
 でも、それは現実的ではありません。人間が人間である限り、「無償の愛」を周りの全員に振りまくことなどできないのが現実というものです。
 ところで…。
 よく「人間関係はgive and take が大切だ」などと言いますが、これは「与える」と「もらう」がセットになっていることでお互いのバランスが取れることを示しています。やはり、この2つのバランスが崩れるなら良好な人間関係は築けないでしょう。
 仮に、「無償の愛」を先の言い方で表すなら「give and give」でしょうか。このように表すなら、「無償の愛」が現実的でないことがわかります。「与えて」and「与えて」と与え続けるばかりでは、最後は与えるものがなくなってしまいます。そのような状態を永久に続けられるわけがありません。
 しかし、工夫をすれば「give and give」もできないこともありません。それは、ほかの人から「take and take」をすればよいのです。そうすることによって、収支のバランスが保たれますから可能です。但し、1つ問題があります。それは、「take and take」をされる人が与えるものがなくなり、不遇になることです。
 このように考えるなら、「give and give」を続ける人は善人でありながらも、違うところでは悪人の面も持っていることになります。世の中、難しいですねぇ。
 じゃ、また。




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