<具体性>

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 僕がこのコラムを書くときは、取りあえず頭に浮かんだことをそのまま書き連ねることから始めます。その段階では意識して多めに書き、その後に言葉を変えたり要らないものを削ったりして文脈を整えます。
 そのようにして書いているコラムですので、下書き段階で消えてしまう内容もあります。その中の1つに、先々週のことですが、ある本について紹介した文章がありました。そのときのテーマに関連して紹介しようと思った本でしたが、結局はボツにしました。
 それから2週間が過ぎ、先週のある日、ブックオフに行きました。店内を見て周り気に入った本を持ってレジに向かいました。その途中で支払いの準備をするために手にした本を平台に置きポケットからお金を取り出しました。そして、平台に置いた本を手に取ろうとしましたとき、たまたま平台に並んでいる本の題名が目に止まりました。なんと、その本は僕が先々週、紹介しようとしてボツにした本の続編でした。その瞬間、僕にはボツにした本が「コラムに書いて」と言っているように思えました。
 僕が先々週紹介しようと思った本は「積木くずし」という本です。この本がベストセラーになったのは今から20年以上前だそうですので、40才以上の方でないとご存知ないかもしれません。ですが、この本はベストセラーになったあと、ドラマや映画にもなりましたから、本は知らなくとも映像などを見て題名だけは知っている人もいるのではないでしょうか。
 簡単に内容を紹介しますと、本の著者は青春ドラマの教頭役などが多く、脇役として名前の知られた男優です。この本は、この方の中学生の娘さんが非行に走ったあと、立ち直った様子を綴った内容でした。その非行の度合いがあまりに衝撃的でしたので、その娘さんを立ち直らせたということでこの男優は一躍世間の注目を集めることとなりました。そして、僕が先週、ブックオフで見つけたのが、その続編である「由香里の死そして愛・積木くずし最終章」という本でした。
 著者は「積木くずし」がベストセラーになったことで、俳優としてよりも教育評論家のような立場で全国を講演などをして活躍するようになりました。しかし、続編の題名が示すように、娘さんの死によってしか、本当の解決はできなかったのです。
 「積木くずし」がベストセラーになったことで著者は周りから持ち上げられることが多くなりましたが、非行の当人である娘さんはますます心を閉ざすこととなり、さらに非行がエスカレートした事実が続編には書かれていました。どこに行っても、「あの積木くずしの女の子」という目で世間から見られたからです。思春期の女の子にとっては苦痛のなにものでもなかったでしょう。続編では著者がそのときの反省の弁を書いていますが、有名になることのマイナス面を娘さんに思い遣る心遣いが欠けていたのが、著者の大きな間違いの元です。
 有名になることのマイナス面は、マスコミなどに取り上げられる飲食店でも同様です。有名になることはプラス面もありますが、同じくらいにマイナス面もあります。飲食店はマスコミをどれだけ上手に利用するかが成功の大きな要因を占めていますが、マスコミを利用することのマイナス面も留意していることはとても大切です。いつの時代もマスコミに取り上げられることで繁盛している店はありますが、一時的でなく長期間続けている店は間違いなくマイナス面も理解したうえで上手に対応している店です。
 話を戻しますと、「積木くずし」の主人公である娘さんは1度は非行から立ち直っているわけですが、その立ち直るアドバイスを与えた人物として警視庁の竹江孝さんという方が紹介されています。本によりますと、著者はいろいろな方のアドバイスを受けていましたが、どれも芳しい効果が得られなかったそうです。それに対して、竹江さんの指導は、親が子供に厳しい姿勢で接することを求め、またアドバイスのどれもが具体的だったそうです。結局、竹江さんの指導だけが娘さんを非行から立ち直らせたわけですが、その大きな要因は「具体性」にある、と著者は指摘しています。
 僕は学生時代、「普遍性」にこだわった時期がありました。この年頃にありがちなことですが、当時の僕は「世の中には真理があるはずだ」と考えていました。そして、真理とはどんなことにも「通用し」、「当てはまる」ものだと考えました。つまり、「普遍性」です。真理は普遍性を伴っていなければならない。それが学生時代の僕の考えだったのです。僕のような人間が、一歩間違うとオウム真理教のような危ない新興宗教に入るのでしょう。
 それから社会人としてときが過ぎ、いろいろな経験を積むうちに考えが変わってきました。まず、学生時代は「真理はひとつである」と考えていましたが、今は「真理はひとつではない」と考えています。「真理がひとつではない」のですから、当然「普遍性」もあり得ません。どんなことにも当てはまる真理には無理があります。
 占いの要諦は「どんなことにもあてはまるような答えをする」ことだそうです。つまり、相談者が「自分に合うように勝手に解釈する」のですから、占いが間違えることなどありません。そこが「占いが当たる」と言われる所以です。どれだけ上手に、全てに当てはまるように言葉遣いをするかが、占いの勝負どころのようです。占いとは誠によくできたものです。もちろん、そのようにするには、抽象的な表現を用いることが多くなります。
 占いとは対照的に、現実の世界で生きていくときに抽象的なことはひとつもありません。生活という行為はいつも、どれも、具体的な出来事の連続です。そんな世の中で抽象的なアドバイスはなんの役にも立ちません。ちょっと頭がよく狡賢い人は抽象的な表現や言いまわしで、相談者をかどわかします。皆さん、くれぐれもそのような人物には注意をしましょう。相手の言うことがあまりに抽象的な表現が多かったならその人物は信頼に値しない人と判断して間違いありません。「積木くずし」はそれを教えています。
 僕は、「積木くずし」を読んでいてあとひとつ思うことがありました。それは不良になる子供には必ずと言っていいほど「無神経な大人」が周りにいることです。僕は今までに、かつて不良だった人のいろいろな本を読みましたが、どれにも必ず「無神経な大人」の存在がありました。
 「無神経」では抽象的な言いまわしですので、具体的に言うなら「子供を傷つける言葉」を発することです。最近では、「言葉」だけでなく「暴力」までふるう親がいますが、「無神経」な大人の存在が子供を不良にするきっかけになっているのは間違いないように思います。
 「暴力」と違い、「言葉」は目に見えないだけに「傷つけている」ことに気がつかないこともあります。また、そういう大人は自分中心に考えることが多いのも特徴です。もし、無神経な大人がいなかったなら、もしくは無神経な大人以上に子供を勇気づけたり癒すことができる大人がいたなら、その子は不良にならずに済んだように思えて仕方ありません。
 そうは言いましても、誰しも子供を育てるときは「子育ての初心者」です。僕はもう子育ては終わりましたが、自分の子育て時代を振りかえってみても、またこれまでの若い人との接し方を思い返してみても、誰をも「傷つけていない」と断言する勇気はありません。年齢を重ねるにつれその思いは益々強くなっています。ですから、せめて、今からでも他人と接するときは「傷つけない」ことを肝に銘じて日々を過ごしている今日この頃です。
 ところで…。
 民主党が混迷しています。このまま行きますと、分裂といった事態も現実味を帯びてきているように感じます。今頃になり、選挙時におけるマニフェストの見なおしが取り沙汰されていますが、ほとんどの人はマニフェストを真に受けて民主党に一票を投じたのではないと思います。単に、自民党の時代が長かったので政権交代が魅力的に映ったに過ぎません。
 選挙時に魅力的なマニフェストを掲げたとしても、それが実行できなければなんの意味もありません。そして、実行することはまさしく具体的行動を起こすことです。そのためにはもちろん裏づけとなる財源の有無を考えることも忘れてはいけません。もし、具体的なことがなく抽象的な表現を掲げるマニフェストなら、それはマニフェストではなくマヌケフェストと呼びましょう。
 じゃ、また。




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