<重石(おもし)>

pressココロ上




 東日本震災が起きてから3週間が過ぎましたが、一向に復興の兆しが見えません。それどころか、原子力発電所の被災により被害が収束する気配さえ感じられません。被災者の方々はいつになったら安心して生活できる状態になるのでしょう。
 また、東北地方の風評被害も起きています。ほうれん草などの野菜が東北地方産というだけで買い控えが起きています。やはり、放射能が不安で東北産の野菜を買うのに躊躇する気持ちが起こっているようです。こうした風評被害を抑えるために、東京にある福島県のアンテナショップでの宣伝の様子が新聞で報じられていました。野菜に放射能計測器を当てて、安全であることをPRしていましたが、マスコミが取り上げることはとても大きい効果があります。
 新聞によりますと、数多くの方が「被災地を応援するために」買いに来ていたようです。日本人の心意気を見たようで少しばかり明るい気持ちになりました。AC広告ではありませんが、日本人全員で力を合わせてこの困難を乗り越える気概を持ちたいものです。
 日本では震災の被害があまりに大きすぎましたのでニュース番組などでもわずかしか報じられませんが、アラブではエジプトに端を発した民主化の流れが加速し不安定な社会状況が起きています。特に欧米諸国では、リビアのカダフィ大佐の動向に注目していましたが、ついに多国籍軍による空爆まで行っています。しかし、僕はこうした一連の流れを見ていて、かつて見た光景のようにも感じます。そうです。イラクのフセイン大統領が失脚したときの光景です。今の段階では、今後どのような展開になるかわかりませんが、カダフィ大佐がフセイン大統領のように多国籍軍の兵士に取り押さえられうなだれている映像が流れる可能性も無きにしも非ずです。
 マスコミがアラブ情勢を報ずるとき、多くの民衆がデモを行っている様子を映し出すことが多いですが、僕はそうした映像を見るたびにいつも同じ疑念が思い浮かびます。
 果たして、この映像は真実を伝えているのか。
 僕は以前、本コーナーで「戦争広告代理店」という本を紹介しました。この本はチトー大統領亡き後のユーゴスラビアが崩壊する過程を伝えている本です。そこには、民族対立そして民族紛争が起きていることが書いてあります。そして国際世論を自らの味方につけるために手練手管を労して算段するある民族の様子が具体的に書かれています。
 本の題名が表しているように、国際世論を味方につけるためのテクニックを伝授するのが広告代理店の仕事です。この本は、戦争を行ううえで大切なことは自らを正義の側にすることであり、そしてそのためには「どれだけ有能な代理店と契約するかにかかっている」と解説しています。正義が「広告代理店の腕にかかっている」状況はあまりに悲しい気持ちになりますが、それが社会の現実のようです。
 僕は、アラブでのデモの映像を見るたびに、その映像でさえどこかの広告代理店の手が回っているのではないか、と疑っています。マスコミが広告代理店のテクニックに惑わされることなく中立な立場で真実を報道する使命を全うしてくれることを願わずにはいられません。
 このような現実を前にしますと、正義がどちらにあるかは容易には判断できかねますが、ただひとつわかることがあります。それは、上からの大きな力が取り除かれたとき新たな紛争が勃発することです。
 例えば、先ほどのユーゴスラビアはセルビア、クロアチアなど多民族が共生する国家でした。それを可能にしたのはチトー大統領という大きな力でした。それがなくなったことがユーゴスラビアに紛争が勃発した遠因です。
 また、少し時代を遡るなら、かつて植民地となっていた国家が宗主国から独立したあとに起こる紛争もその例のひとつです。このような例は枚挙に暇がありません。このような歴史を見ていますと、人類は上からの大きな力という重石がなくなり自由を手に入れると、それに伴って自らの力を大きくしたい欲望が生まれる生き物のように思えます。見方を変えるなら、上からの重石は人間に箍(たが)をはめる役目を果たすようでもあります。ちょうど、孫悟空の頭に乗っている金の輪のようなものかもしれません。
 先週のコラムでも書きましたが、震災後テレビの広告はACの公共広告一色になりました。その公共広告ですが、僕が子供の頃はそのような広告はありませんでした。たぶん、その当時は公共広告など必要がなかったからです。年配者がよく口にする言葉があります。
「昔は公共心があった」
 僕は「昔は全てよかった」などと言うつもりはありませんが、やはり他人に対する「気配り心」は昔のほうがあったように思います。現在のような心の寒々とした社会にしたのは、現代人が気持ちに余裕のない生活を送るようになったことと無関係ではないでしょう。学歴社会からはじまり、競争を煽る社会、競争の激しい生活の中で「他人を蹴落とすことでしか生き延びる術がない」社会の中で「他人に気配りをする」気持ちなど起こりようがありません。
 このような現代人の性格をたしなめる意味で、今一度昔の日本人の心持ちを思い起こさせる必要を感じたからこそ公共広告という概念も生まれたはずです。自分のことだけを考えるのではなく社会全体のこと、公共の大切さを考えることの必要性を訴えるために公共広告が生まれたはずです。
 先日の新聞によりますと、震災地への寄付金が今の時期でこれまでの最高額を上回ったそうです。このことは、多くの日本人が困っている人たちに手を差し伸べる気持ちになっていることを示しています。僕は、このような心温まる報道を見ていて考えます。もしかすると、震災・津波という災害は日本人に重石の役目を果たしたのかもしれません。
 ところで…。
 経済誌の記事によりますと、東京電力は今回のトラブルに際し、すぐには東芝や日立といった原子力発電所の専門家に応援を依頼しなかったそうです。東芝や日立は原子力発電所を設計し作った当事者ですから、東京電力の担当者より発電所に詳しく適切な対応ができたようでした。また、東芝や日立の側は原子力発電所の被害を聞いてすぐに修理に対応する準備を整えて依頼がくるのを待ち受けてもいたそうです。もし、この記事が事実であるなら東京電力の対応は批判されて当然です。
 もし、東京電力がちっぽけなプライドが邪魔をして、自分たちだけで対応しようとしたのなら今回の原子力発電所の災害は人災と言われても仕方ありません。しかも、その人災はあまりに大きな被害をもたらしています。今後、東京電力という企業のあり方が問われることは間違いありません。
 先週の日経ビジネス「今週の焦点」で前政策研究大学院大学学長の八田達夫氏の指摘・提言は理にかなっているように感じました。詳しくは読んでいただくとして、八田氏は「諸悪の根源は電力会社の独占状態にある」と言い切っています。独占状態とはつまり、競争がない状態のことです。多くの民間企業は厳しい市場競争の中で戦うことで悪にならずに済んでいることになります。つまり、市場競争が重石の役割を果たしているのですね。でも、矛盾してますよねぇ。競争が多くの日本人から公共心を失わせ、同じく競争が企業にとっての正しいあり方のための重石になっています。
 う~ん。世の中って難しい…。
 じゃ、また。




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