<土下座>

pressココロ上




 僕は今現在も販売の仕事に携わっていますので、直接お客様と接する仕事をしています。具体的には「頭を下げる」行為をしています。僕はこの「頭を下げる」行為は人間でいる限り忘れてはいけない振る舞いだと考えています。ですから、僕はできるだけ長く接客の仕事を続けようと思っています。さらに、その根本的な理由を述べるなら、傲慢な人間になりたくないからです。なんとなく、「頭を下げる」行為をしなくなると、いつのまにか少しずつ自分でも気がつかない間に謙虚さを失っていくような不安にかられます。
 「頭を下げる」行為にはもちろん伴う言葉があります。「ありがとうございました」です。細かいことにこだわる人の中には絶対に「ございます」と現在形でなければならず「ございました」と過去形にしてはいけない、という人もいます。ですが、僕はそこまで細かいことにこだわるタイプの人間ではありませんので、どちらでもいいと思っています。大切なのは、心がこもっているかどうかです。それはさておき、普通は「ありがとうございました」と言いながら「頭を下げ」ます。
 僕はこの一連の「頭を下げ」ながら「ありがとうございます」という行為にこだわっていますが、だからと言ってこの行為をしている人が必ず「謙虚な人柄か」というと残念ながらそうでもありません。単に、朝礼の時間に全員で練習しているからとか、会社の決まりだから、という理由で実行しているだけに過ぎない人もいます。「います」どころか、そういうような感覚の人のほうが多いのが現実でしょう。
 僕は初対面の人と会ったとき、「この人は心の底から心を込めて『ありがとうございます』を言ったことがあるか」と考えます。
 以前、僕はこの「頭を下げる」行為について同年代の知人とお話したことがあります。そのとき、僕は「一般的に」と前置きをした上で、公務員として働いている人には「心を込めて、頭を下げて、お礼の言葉を述べる」人は少ないような気がする、と話しました。理由は、「心を込めなく」てもお給料が減ることがないからです。民間企業であっても同様な人ももちろんいます。やはり、会社員という身分も公務員と似たような部分もあり、心がこもっていなくとも直接すぐに給料に反映されるとは限らないからです。
 僕のこの意見に対して同年代の知人は「そうかなぁ」と諸手を挙げて賛成ではない、ニュアンスの反応でした。この知人の反応も尤もなことで、見城徹氏が言うように「人間は体験した範囲でしか理解できない」のですから、致し方ありません。僕と同じ人生期間を送ろうとも体験していることが違いますから考えや意見が同じになる可能性は少なくて当然です。
 「頭を下げる」行為の究極な姿は「土下座」です。正座をし顔を地面につけるほど頭を垂れる姿以上に「頭を下げる」行為はないでしょう。それでも、その気持ちが相手に伝わるとは限りません。
 その土下座する姿を先週は二人見ました。一人は東京電力の清水社長であと一人は食中毒で死者を出した焼肉チェーンの勘坂社長です。
 僕の記憶では、大の大人が公の場で土下座する姿を見たのはC型肝炎事件の加害企業であるミドリ十字の経営幹部が患者の方々に謝罪する映像でした。確か、両者が和解に向けて話し合いをしている場面です。机をはさんで3メートルほど離れて向かい合っていたときに患者代表の中のひとりが怒りに任せたままに「俺たちの前に進み出て土下座しろ!」と叫んだときでした。経営幹部の方々は、椅子から立ち上がると患者の方々の机の前までに出て行き全員で土下座をしていました。その映像は今でも頭に残っています。
 東京電力の清水社長が土下座したのは、浪江町の避難所に謝罪に訪れた際に町民に土下座を求められ、それに応じた姿でした。ネット上では、この清水社長への罵声や土下座を強要する町民の姿勢に対して批判するコメントなどもあるようです。反対に、清水社長の土下座を「単なるパフォーマンス」と切り捨てるコメントもあります。
 「単なるパフォーマンス」という感想は土下座という行為に対してありがちな感想ですが、その理由は土下座がかもし出す異様さにあるように思います。土下座には言いようのない悲哀があります。どんなに額を地面にこすりつけるほど頭を下げようとも、そこからは不思議と「心がこもっている雰囲気」が漂ってきません。どんなに必死に頭を地面に押しつけようとその行為をそのまま受け取る人は少ないように感じます。「心がこもっている雰囲気が漂ってこない」ことが、土下座という行為が「単なるパフォーマンス」と受け取られやすい理由のように思います。
 この理由には確信があるわけではありませんが、仮に土下座を求めた側が「土下座をしてもらって」も気持ちが晴れないのは確かです。C型肝炎のときもそして今回の東京電力の清水社長の土下座のときでも、土下座をされた側で気分が晴れた表情になった人はひとりもいませんでした。反対に、怒りが増幅されたように見えました。自分が相手に求めた土下座であってもです。
 このように考えますと、土下座という行為はこじれた関係や対立する関係を修復するのに適している行為ではないようです。僕がこのように思うのは、C型肝炎事件のミドリ十字の幹部にしろ、今回の東電の社長にしろ、土下座をしている姿を見て「いたたまれない」気持ちになったからです。住んでいた土地から追いやられ生活することさえ困難になった避難民の方々もかわいそうですが、土下座をしている清水社長にも同情の気持ちが湧いてきてしまうのです。
 だからこそ、第三者である僕などが気安くどちらかの肩を持つ感想を言ってはいけない、と思っています。今の心境は、姦淫をした女性に石を投げつけていた人々に「今までに悪いことを一度もしていない者だけが石を投げよ」と語ったイエス・キリストの言葉を思い出しています。
 できるなら、東京電力は原発事故により普通の生活を営めなくなった避難民の方々が満足できる賠償をし、また避難民の方々は東京電力に恨みや辛みだけをぶつけるのではなく、相手の立場にも思いやって対応することを願うばかりです。お互いがお互いの立場を思いやる気持ちを持つことが必要です。
 基本的に、人間はいつ自分が加害者になるかわからない、と肝に銘じているべきです。
 ところで…。
 焼肉チェーンの食中毒事件は新たな展開がありました。これまでは、チェーン店だけに責任があるかように伝えられていました。しかし、卸業者が「生食用の肉」として卸していたことを示すメールの存在が明らかになりました。もし、このメールが本物であるなら、食中毒の責任の大半はチェーン店にではなく、卸業者にあることになります。
 今の段階では、まだどこに責任があるか定かではありませんが、いずれにしましても真実に基づいて裁かれることを願っています。
 話は変わりますが、僕は今年になりTBSドラマの「JIN~仁」の素晴らしさに感激していることを以前述べました。実は、つい先ほどまで観ていました。そして、偶然にもドラマの中で内野さん演じる坂本竜馬と西郷隆盛が話す場面があり、それを見ていて僕は思いました。「土下座」の反対語は「意地を張る」じゃないかな…。ただ、それだけ…。
 じゃ、また。




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