<ごくろうさま>

pressココロ上




 先々週のコラムで、僕は「自分が咳で苦しんだお話」を書きました。世の中に呼吸器科という診療科目があることを初めて知り、「そのおかげで快方に向かっている」と書きました。そのコラムの中では僕の咳の原因を「スギのアレルギー」と紹介しましたが、それは血液検査と痰検査の結果からお医者さんが下した判断でした。しかし、僕はこの2つの検査以外にも検査をしています。CTスキャンです。
 先週、その結果報告を病院で受けたのですが、先生はCTスキャンの写真を見ながら言いました。
「肺炎にかかっていたようです…」
 僕は疑問に思い、尋ねました。
「肺炎はもう治ったのですか?」
「ええ…、そのようです」
 先生のお話をそのまま受け取りますと、結局、僕の咳は「アレルギー」と「肺炎」の両方が原因だったことになります。しかも、肺炎はいつの間にか治っていた…。
 しかし、僕としましては先生のお話をそのまま鵜呑みにするのもなんとなく納得できない気分もあります。そもそも肺炎という病気は「自然に治るのか?」。僕の正直な感想です。
 そのような疑問はありながらも、一応咳も治まり健康な状態になりましたし、これ以上は詮索する術も持ち合わせていない医療に素人の僕としては、夜中に目が覚めないことに感謝し、日々を過ごすのが無難な生き方です。
 それはさておき、僕はその病院に週に1回通院していたわけですが、そのたびにとても心に引っかかる光景を見かけました。それは待合室での光景です。
 病院には患者さんのほかにいろいろな業者の方が来ますが、その業者の方が病院を退出ときに業者の方に対して看護士さんが発する言葉が気になって仕方ありませんでした。
「ごくろうさまでした」。
 一般的に、病院の受付などに座っている看護士さんは若い方が多いですが、そういう方が、明らかに自分より年長に見える業者の方に対して「ごくろうさまでした」という言葉を発していたことが気になっていたことです。
 根本的に、僕は相手によって態度を変える人が嫌いです。俗な言い方をするなら、偉い人には媚びへつらい、自分より下の者に対しては高飛車に出るような人です。このとき「下」とは年齢であったり肩書きであったり社会的地位であったりしますが、とにかく自分のほうが強かったり有利だったりしている立場にいるときに偉そうに振舞う態度を取る人が好きではありません。
 そんな僕が敏感に反応する言葉が「ごくろうさま」です。僕からしますと、この言葉は明らかに「上の者が下の者に対して使う」言葉です。ややもすれば、自分が上の立場にいることを示威するための言葉にもなります。「ごくろうさま」から湧き上がるイメージは、殿様が家来に対して「おお、ご苦労」と労っている光景です。間違っても、家来が殿様に対して「ごくろうさまでした」とは言いません。もし、この言葉を使ってしまったなら、たぶん切腹を命じられるでしょう。
 このように、上下関係に敏感な僕ですので、ラーメン屋さん時代にはパートさんへの言葉遣いに悩みました。それはパートさんが仕事を終え、店を退出する際に使う言葉遣いでした。先ほども書きましたように「ごくろうさまでした」には上下関係を示威する意味もありますから適切ではありません。結局、いろいろと考えた末に「働いていただいた」のですから「ありがとうございました」が相応しいように思えました。もし、パートさんがいなかったなら、ピークタイムを捌くことができないのですから、御礼の言葉を言うのが最も正しい選択だと思えたからです。
 自分でもいつからかわかりませんが、僕は「ごくろうさま」という言葉に敏感になっていたのですが、そのことを今週の「コラムに書こう」と思ったきっかけは僕と同じ考えの人がいることを知ったからです。
 最相葉月さんというノンフィクションライターをご存知でしょうか。「絶対音感」という本がベストセラーになり有名になった方です。僕はこの本を読んでいませんのでが、最相さんがどのような方かわかりませんが、感性が僕と似ているような気がしていました。理由は、この方が新聞の人生相談コーナーの回答者だったからです。相談者への最相さんの回答文を読んでいますと、毎回共感できる内容でした。
 その最相さんが「ごくろうさま」という言葉を取り上げてコラムを書いていました。「ああ、僕と同じ発想の人がいたんだ」。自分と同じ考えの人がいるとやはりうれしいものです。
 言葉遣いは発する人の心根を顕にすることがあります。当人は優しさを表すつもりでいてもそれが逆効果になっている場面をたまに見かけます。それは親しみを表す言葉遣いです。
 今までになん度かテレビ番組などで見たことがありますが、老人ホームや養護施設などで職員の方やヘルパーさんなどが入居者や利用者に接するときに使う言葉遣いです。例えば、高齢の方に対して、まるで小さな子供に対して使うような言葉を呼びかけている職員やヘルパーさんがいます。このような言葉で呼びかける人は「親しみの意」を込めて使っていると錯覚しているケースが多いようです。しかし、僕には「見下し」の本音が見え隠れしてしまいます。僕はそのような場面を見るたびに不愉快になります。
 人は誰しも高齢になり肉体的に衰えます。また、精神的もしくは認知的にも衰えます。そのような高齢者は、見方によっては社会的弱者と映るかもしれません。しかし、人生の先輩であることは紛れもない事実です。そのような先輩に対して「子供言葉を遣う」のは失礼です。人間としての尊厳を無視しているように感じてしまいます。尊厳を傷つけられて喜ぶ人は誰もいません。
 言葉遣いは大切です。当人の心の奥底に隠れている本音が透けて見えることがあるからです。中には意図的に優越感を持ちたいがために「上から目線言葉」を使う人もいるでしょう。そのような人は別として、他人のそして自分の尊厳を大切にする人でいたいなら自分の発する言葉を振り返ってみましょう。
 ところで…。
 菅首相はなんだかんだと言って首相の地位に座り続けています。実は、僕はその菅首相を「偉い!」とも思っています。これだけバッシングされてもなお首相の地位に居座り続けるのはかなりの根性がなければできない業でしょう。本来なら、首相にまで登りつめたのですからいつ辞めても悔いはないはずです。少し振り返るだけで、簡単に投げ出した政治家を思い出すのは容易です。それほど皆さん、安易に重責から逃げ出しています。それを思うとき菅首相の粘り強さに尊敬の念さえ沸き起こります。
 よく政治家は「自分の進退は自分で決める」ものと言われますが、菅首相も周りからなんと言われようと自分で決めるつもりでいるのではないでしょうか。僕が思うに、たぶん菅さんは目覚まし時計のように自分の辞め時をセットしており、その音が鳴るまで辞めるつもりなどないつもりです。もしかすると、辞め時も事前に決めているのではなく、いわゆる第六感という感性で決めるのかもしれません。きっと、第六感が働いて音が鳴ったときに辞めるはずです。このような音を「感な音」と言います。
 じゃ、また。




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