<被り物>

pressココロ上




 僕のコラムを長く読み続けていらっしゃる方はご存知だと思いますが、我が家は半年毎に新聞を変えています。ですから、今月より読売から朝日になりました。やはり、新聞により特徴というものがあります。それぞれの雰囲気というか傾向というか、はたまた匂いというか、とにかく記事の取り上げ方や書き方に違いがあります。
 僕は、朝日は読売に比べ記事が情緒的だと感じています。感傷的と言ってもいいかもしれません。悪い意味で言うのですが、ドラマティックに記事を書こうとしているように感じることがままあります。
 先週、タリバーンの少年兵に関する記事がありましたが、僕からしますとまさに朝日新聞の特徴が如実に出た書き方のように感じてしまいました。
 朝日らしいかどうかは別にして、その記事が伝えていた内容はあまりにかわいそうでした。記事によりますと、タリバーンの少年兵は無理やり親元から連れ去られ、組織に従属することを誓うことによってようやっと命を助けられての生存でした。その後も洗脳が続き、そして自爆する少年兵が作り上げられる、ということでした。
 そのようにして作られる少年兵ですが、中にはそのような環境にいながらも自分を見失わない少年もいるようです。朝日の記事はそんな少年のひとりを紹介していました。組織から自爆テロを命令されながら、身体に巻いた爆薬をアメリカ兵に見せ実情を話し助けてもらった少年でした。
 この少年は、大人から洗脳されていたのですから従順な自爆テロ人間となってもおかしくなかったはずです。それにも関わらず、自分の意思や考えを捨てることなく、または曲げることなく、もしかすると「忘れることなく」かもしれませんが、とにもかくにも周りに感化されずに自分の意思を貫いた精神力は素晴らしいものがあります。
 それに比べて、日本の一流企業に勤めるエリートと言われる大人たちの情けなさよ…。
 もちろん、九州電力のやらせメール事件のことです。僕はこの事件の最も重大な問題点は、やらせメールを企画したことでも、世論を操作しようとしたことでもない、と思っています。一番の問題点は誰も止めなかったことです。報道によりますと、副社長が関与しているようですが、副社長の指示に誰も異を唱えなかったことが問題です。ただの問題ではありません。大問題です。
 この事実が表面化したのは子会社の社員の告発が発端のようです。当然ですが、子会社の社員に指示が伝わるまでに、親会社のたくさんの社員の間を通過していたはずです。そのときに、なぜこんな馬鹿げた指示を誰も止めなかったのか。なぜ親会社の社員たちはこの指示をなんの躊躇いもなく粛々と実行に移したのか…。僕は不愉快です。ただの不愉快ではありません。大不愉快です。
 やらせメールが間違った行為であることは誰でもわかります。小学生でも中学年くらいならわかります。それをなぜ大の大人が粛々と遂行したのでしょう。
 ああ、なんか天の声が聞こえてきそうです。
「大人には大人の論理があるのさ」
 ああ、物分りのいいいかにも世間慣れした声が聞こえてきそうです。
「清濁併せ呑むのが、大人というものだよ」
 ああ、大きな声を出すことで世の中を渡り歩いて来た人の声が聞こえてきそうです。
「きれいごとじゃぁ、大人の世界は生きていけないぜ」
 …、…。
 僕はこのような事件に接するたびにいつも金子光晴氏の「奴隷根性の唄」を思い出します。会社で働くということは会社の奴隷になることではありません。上司の命令が全て正しいとも限りません。その証拠に上司や幹部が入れ替わり指示が正反対になることはよくあることです。そのときになんの逡巡もなく「ホイホイ」と今までと正反対の行動を取るのでしょうか。そこには自分というものがありません。そんな会社員と先ほど紹介したタリバーンの少年兵とどちらが人間らしい生き方と言えるでしょう。
 器用な大人は言います。
「組織に属するということは自分を隠すことだよね」
 自分をさらけ出していけるほど会社という組織は優しくはありません。ですから、誰でも巣の自分ではなく、まるで被り物をしているように本来の自分ではない人物像を演じて生きています。でも、気をつけないと知らぬ間に被り物が脱げなくなり、いつしか被り物と同質化しているかもしれません。
 若い皆さん、くれぐれも自爆テロを正当と考えるような人間にはならないでください。
 ところで…。
 それにしても菅首相の言葉の軽さが目にあまります。一国の総理が記者会見を開き語った言葉が、そのすぐあとに官房長官によって「個人的見解」と訂正されるとは、前代未聞です。しかも、菅首相本人もあっさりと「個人的見解」と認めているのですから、なにをかいわんやです。
 報道によりますと、ベテランどころか中堅議員の間からまで退陣要求が出ているそうですから、軽いのは言葉だけではなく存在そのものかもしれません。以前このコラムで書きましたが、実は僕は菅首相が簡単に首相の地位を投げ出さないことを評価している人間です。それまで簡単に投げ出す人が続いていましたので、菅首相の執着振りが新鮮にさえ映って見えました。ですから、評価していました。
 しかし、ここまできますと、やはり「早く退陣すべき」と思ってしまいます。今の菅政権および与党内を見渡しますと、菅首相の孤独が感じられるばかりです。それでも首相の座を手放さないのは、きっと首相という被り物を被っている責任感からでしょう。そうでなければ、あれほどバッシングをされてもなお続けている意図がわかりません。
 ですが、菅首相は童話「裸の王様」を思い出すべきです。もしかすると、首相という被り物は実際はないのかもしれません。
 じゃ、また。




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