<パックスアイマイーナ>

pressココロ上




 東日本大震災が起きたとき、被害を大きくしたのは地震そのものよりもそれまで経験したことがないほど大きな津波でした。家屋や車がまるでミニチュア模型のように軽々と流されていく映像は自然の驚異をまざまざと見せ付けました。そのような震災でしたから、亡くなられた方も常識の範囲を越えています。人の命が失われることはとても悲しいことですが、とりわけ小さな子供さんの命が奪われた話を聞きますと、益々辛い気持ちになります。その子供さんたちの被災で僕が複雑な気持ちにさせられたニュースがありました。
 ニュースの内容を大まかに説明しますと、震災が起きた日に幼稚園に通っていた子供たちが津波に襲われ亡くなった被災でした。この被災の問題点は幼稚園の対応に不手際があったことです。
 もう少し具体的に言いますと、地震が起きたあと幼稚園側が子供たちを親元に帰そうとバスで送ったことが批判されています。理由は、結果的にバスが津波に向かって走ったことになったからです。幼稚園は高台にありましたので、もしバスに乗せて帰宅させるという対応を取らなかったなら、津波に襲われることがなかった可能性が高いからです。つまり、園児たちの命が奪われることもなかった可能性が高いからです。先日のニュースでは、亡くなられた園児たちの親御さんたちが幼稚園に対して裁判を起こしたことが伝えられていました。
 このニュースに接したとき、僕は複雑な気持ちになったわけですが、それは「どちらに責任があるか判断のつけようがない」と思えたからです。裁判を起こした親御さんたちの気持ちもわかります。幼稚園の対応がもっとしっかりとしていたなら「我が子の命が奪われることもなかった」と考えるのですから、人災と考えても不思議ではありません。
 また、幼稚園側の立場に立つなら、誰も想像できないほど大きな津波だったわけですから、パニックに陥ったとしても仕方ないように思います。もし、自分が同じ立場にいて判断を迫られたなら正しい決断をできたか自信がありません。
 結局、結論は司法の場に移されたわけですが、第三者が軽々しく意見を言えるものではありません。ただひとつ、僕が思ったのは「昔だったなら、白黒決めることはしなかった」のではないか、ということです。昔なら、結論を曖昧なままにしてものごとを収めていたように思います。
 ニュースの映像で、遺族と幼稚園側の話し合いの模様が映し出されていました。幼稚園側からは園長と教諭の方々が出席していましたが、園長はその責任ある立場から当然としても一般の教諭の方までがうなだれた様子で席についていたのが印象的でした。その肩を落とし打ちひしがれている様子から、教諭という仕事の責任の重大さがひしひしと伝わってきました。もし、このような出来事に出合わなかったなら、普通に仕事をこなしていたはずの先生方です。その姿から、どんな仕事であろうと、社会人として働くということは「責任という重い立場から逃れられないこと」を実感しました。
 先週のニュースで、そのほかに印象に残ったのは米国債の格付け問題です。S&P社という格付け会社が米国債の評価を下げたことが注目を集めました。この格下げがその後の世界的な株安に影響を与えたわけですが、朝日新聞に掲載されていたクルーグマン教授のコラムではS&P社そのものに対する批判が展開されていました。
 クルーグマン教授の指摘で最も印象に残ったのは、2008年に起きたリーマンショックにおけるS&P社の評価でした。教授によりますと、S&P社は破産する直前のリーマンブラザーズに対して最高の評価を与えていたそうです。つまり、教授はS&P社の評価能力に疑問を投げかけているわけですが、そもそも<格付け会社>を問題視している経済学者はほかにもたくさんいるようです。
 経済の世界に限らず、あるモノや出来事に対して誰かが評価をするとき、その評価をする人の信頼性はとても大切です。素人は、専門家や評論家の評価を基準にするしかありませんが、専門家や評論家がいつも正しいとは限りません。だからこそ、素人と言えども専門家などを評価する目を養っている必要があります。
 専門家を判断するときに気をつけなければいけないことがあります。それは、断定的な物言いをする専門家がマスコミ受けをすることです。マスコミは刺激的なものを歓迎する傾向がありますから、少し大げさなくらいに断定的な物言いはマスコミに取り上げられやすくなります。曖昧な表現よりは断定的な表現が好まれます。見方を変えるなら、「歯切れがいい」とも取れますが、素人は「ものごとは白黒を簡単につけられるほど単純ではない」ことを常に意識の中においておく必要があります。
 ここまで読まれて、今週のテーマの「パックスアイマイーナ」の意味がおわかりになったでしょうか。これは「パックスブリタニカ」や「パックスアメリカーナ」をパロッタ表現です。「パックス」とは「平和」の意味で「ブリタニカ」は「英国による平和」ですし、「アメリカーナ」は「米国による平和」を意味します。つまり、そのときどきの世界最強の国家の力によって世界の平和が保たれていることです。
 そこで、「パックスアイマイーナ」は「無理やりに白黒を決める」のではなく、「曖昧なままでいること」で「平和」を保つ世界観があってもいいのではないか、という意味でつけました。ものごとには絶対ということはあり得ません。ひとつの出来事が片方には「正しい」ことであっても、反対側からは「悪い」ことである可能性もあります。それでも、みんなが平和に暮らしていくには「白黒を決める」のではなく「曖昧」も悪くはないのではないでしょうか。
 明日は終戦記念日。戦争に「正義」の大義名分はありません。
 ところで…。
 先日、車に乗り駐車場からいつものように走り出しますと、僕の前二十メートル先くらいを30代半ばの主婦らしき女性が自転車に乗って僕と同じ方向に走っていました。その道路は自動車が1台走れるほどの幅しかありませんので、自転車を追い抜くこともままなりません。僕は、広い通りに出るまで自転車のあとをゆっくりと走っていました。
 そのように走っていますと、自然と自転車のうしろ姿を見ることになります。自転車はそれほどスピードを出しているふうでもなくゆっくりと走っていました。そして、それは自転車が広い通りに出かかったときに起こりました。
 自転車が通りに出た瞬間、自転車の前をスピードを出した軽四輪者が走り抜けたのが見えました。それと同時に自転車が倒れ、そして間をおかずに走り抜けた方向から「ガシャガシャ、ガチャーン」という大きな音が聞こえてきました。僕はすぐに交通事故を考えました。
 自転車は転倒しましたが、主婦はゆっくりと起き上がり、衝突音がした方向に向かって謝罪の言葉を発してしているように見えました。主婦の素振りからしますと身体的に怪我をしているようでもありませんでした。たぶん、転倒したのは、「驚き」と「風圧」のせいだったのでしょう。僕が通りに出る少し前に、軽四輪者を運転していたらしき中年男性が主婦に近づきながら「大丈夫ですか?」と声をかけているのが見えました。
 この交通事故を説明しますと、自転車に乗った主婦が一時停止をせずに道路に飛び出し、それを避けようとした軽四輪者が道路わきの家の玄関に突っ込んだ事故です。僕が通りに出て、突っ込まれた家の玄関を見ますと、門扉と駐車場が粉々に砕けていました。運よく、人を巻き込むことがなかったのがせめてもの救いです。
 この事故で、僕が感心したことがあります。それは軽四輪車の運転者と自転車の主婦、両者の対応です。どちらも感情的にならずに冷静に相手を思いやった振る舞いは気持ちのよいものでした。僕が特に感心したのは主婦のとった態度です。
 それは主婦が逃げも隠れもせずに、軽四輪者の運転者にお詫びの言葉を発していたからです。考えようによっては、「自分を被害者」とだけ捉えて、運転者を非難するか、もしくはその場を立ち去ることもできたでしょう。ズルイ人なら、そのような対応をとっていても不思議ではありません。
 事故の15分後に、またその現場を通りましたが、軽四輪者の運転者とともに自転車の主婦も警察を待っているようでした。実に、清清しい主婦の対応でした。
 以前に書いたことがありますが、仮にこの主婦の過失があった場合でも、個人賠償責任保険に加入しているなら、保険で対処することができます。皆さん、くれぐれもこの保険には加入しておきましょう。普通は傷害保険に付随していることが多い保険ですので、是非とも確認しておきましょう。
 この自転車の主婦は一歩間違えれば被害者になっていましたし、また一歩間違えれば加害者になる可能性もあります。このように、人間は被害者になるのも加害者になるのも紙一重でしかないことを肝に銘じておきましょう。
 じゃ、また。




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