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pressココロ上




 ふる~いお話で申し訳ありませんが、僕が高校生時のお話です。
 ある日、家でくつろいでいますと、妹がラジオカセットを手にしてやってきました。
「ねぇ、お兄ちゃん。すごくいい歌だから聴いてよ」
 妹は僕に、最近若い人の間で人気があるオフコースというバンドのアルバムを聴かせてくれたのでした。ですが、カセットから流れ出てくる曲は、そのときの僕の感性には合わず、僕は「あんまりよくない」と感想を言いました。
 それから数年後、大学生になっていた僕は友だちに「オフコースっていい歌ばっかりを歌うよな」と話していました。僕はこの出来事を通して「同じ歌でも、聴く側のそのときの心情や心持ちなど心理状態で感じる印象が変わってくる」ことを学びました。つまり、同じ歌が、聴く側の心理状態でよくも悪くもなるのです。そして、年齢を重ねるにつれて、この教訓はほかのことにも当てはまることも知りました。
 それを承知のうえで言うなら、民主党の党首選に勝利したあとの野田氏のスピーチは僕的にはあまり感動しませんでした。全員に語りかけるような口調で
「ノーサイドにしましょうよ」。
 閣僚の顔ぶれを見ますと、確かに「ノーサイド」になったような感はありますが…。
 今から2年前、民主党が政権交代を成し遂げたときが思い起こされます。当時、お店の常連客だった中年のおじさんが「試しに民主党にやらせてみよう、ということだよな」とつぶやいていたのが記憶に残っています。僕も全くの同感でした。
 あれから2年、民主党から3人目の総理大臣が選出されたわけですが、今回の党首選を僕なりに振り返ってみたいと思います。
 その前に菅首相について感想を言うなら、やっぱり「天晴れ」でいいのではないでしょうか。それまでの首相が自民党も含めて「すぐに投げ出す」総理が続いたのに比べるならとても辛抱強く粘りがあったように思います。しかも、いつの間にか「辞めるための条件」までつけたのですから、「天晴れ」です。周りの人たちが、民主党の幹部も含めてですが、周りの人たちに「なんとか菅さんを辞めさせないと…」とまで思いつめさせたのですから、「天晴れ」です。したたかささえ感じました。ある意味、総理にうってつけの人物だったかもしれません。そういえば、僕もこのコラムで「早く辞めてほしい」と書いたっけ…。
 その菅さんの後継をめぐっての選挙でしたが、選挙戦中で僕が情けなく思ったのは立候補者の「小沢詣で」です。立候補をした人たちは過去の政界を振り返らなかったのでしょうか。自民党時代の悪例・悪習を思い起こすなら、「小沢詣で」など、してはいけないことは自明の理だったはずです。そんな状況の中、決選投票とはいえ、唯一「小沢詣で」をしなかった野田氏が勝利したのはせめてもの救いです。
 朝日新聞では、選挙後の海江田氏がインタビューに答えていました。氏は小沢グループの支援を得ることに成功し、もし当選したなら「傀儡政権」とマスコミから指摘されていました。そうした状況を、氏は「傀儡政権と思われても自分の政策ができるなら、甘んじて批判を受けるつもりだった」と答えていました。ですが、傀儡政権で「自分の政策などできない」ことも過去の歴史が教えてくれています。
 前原氏については、一言でいうなら「遅かった」でしょう。もっと早めに選挙活動を始めていたなら展開は違っていたように思います。ただ、前原氏までもが、最終的には決裂したとはいえ、「小沢詣で」をしたのは落胆させられました。
 今回の選挙での最も大きな収穫と言えば、なんといっても「最大派閥が支持した立候補者が負けた」ことです。この意義はとても大きいものがあります。「民主主義は数だ」と言いますが、その鉄則が通用しなかったのですから…。
 元来、僕は「数が多いほうが決定権を握る」民主主義に疑問を感じていましたので、今回の最大派閥の意向に左右されなかった結果を喜んでいます。大げさに言うなら、これこそが民主主義のもう一つの原点である「少数意見の尊重」を体現したようにさえ思います。このような多数決の結果があってもよいです。
 この結果は、もうひとつの意味があります。それは小沢氏の影響力の低下です。僕は小沢氏個人を特別に嫌悪しているわけではありませんが、小沢氏がいつまでも影響力を保持している政界は正常な形ではない、と考えます。小沢氏と同年代の政治家はもう全員が第一線を退いています。小沢氏にも世代交代が必要なのは言うまでもありません。
 選挙結果を受けたあとの野田氏のスピーチは概ね好評でした。しかし、僕は「計算されたスピーチ」のように感じられ、あまり好印象は持ちませんでした。僕のこの感想も、コラムの冒頭で書きました「聞く側の心理状態」によるかもしれませんが、感動とはほど遠い内容に聞こえました。
 政治はイメージとは無縁でいられません。それはわかりますが、だからと言って、自分の印象をよくするためにイメージを自らが作るのは「計算」のように感じます。計算されたスピーチが聴く人の琴線に触れることは絶対にできません。
 自らを「どじょう」に例えましたが、僕からしますと、「どじょう」という表現は明らかに「庶民派」を意識した言葉遣いです。イメージ作りのための「どじょう」と言ってもよいでしょう。そこに計算が見て取れて印象がよくありませんでした。
 「どじょう」から連想する「泥臭さ」とスピーチの「巧みさ」は、やはり矛盾します。「どじょう」を標榜するのであれば、スピーチにも「泥臭さ」が求められます。スピーチはもっと下手なほうがよかったかもしれません。「ノーサイドにしましょうよ」と言ったときの野田氏の口調、抑揚、表情は「どじょう」ではなく、スピーチを得意とするエリートの姿でした。
 僕が野田氏にこのような感想を持つのは、野田氏が松下政経塾出身者であることと関係があるかもしれません。僕の中の先入観がさせるのかもしれません。
 松下政経塾には僕は思い出があります。僕が学生時代に一緒にアルバイトをしていた他大学の友だちが卒業後、松下政経塾に入ったからです。もちろん、この学生は有名一流大学に在籍していました。そして、やはり勉強もスポーツも秀でていました。その意識も自分でも持っていました。いわゆる「エリート」と言ってもいいでしょう。
 この松下政経塾に入るのは至難の業です。それこそ東京大学を筆頭に一流大学出身者の受験者の中から、選抜された者だけが得られる栄誉です。もちろん、当時の僕にはその偉大さがよく理解されていませんでしたが、超一流企業に入るのと同じくらいにエリートを養成する塾だということは知っていました。周りのみんなが教えてくれましたから…。
 でも、同時に僕は思っていました。エリートを養成する塾でエリートでない人たちの心や気持ちがわかるのだろうか?って。
 簡単に言うと、「選ばれた人に選ばれなかった人の気持ちがわかるのだろうか」
 僕のうがった想像では、松下政経塾出身者の間には、「先を越された」と地団太踏んでいる人もいるように思います。
 ところで…。
 世の中で自らのイメージを重要視するのは政治家に限りません。有名人は全員がイメージアップを心がけています。先日は島田伸助さんが引退を表明しましたが、その理由も元をたどればイメージに行き着くように思います。
 芸能人でなくとも、経営者も同様です。自らが広告塔になって頻繁にマスコミに登場している経営者は尚更です。その中にユニクロの柳井正氏がいますが、柳井氏に対しては礼賛と批判の両方があります。どんな名経営者でも100%礼賛ということはあり得ません。その柳井氏について、今年3月に「ユニクロ帝国の光と影」という本が出版されました。本来はこの種の本は、批判される内容ですが、面白いことに著者によって批判されている点が読者のレビューでは礼賛の要点となっています。
 この礼賛を意図的と感じる人は私だけではないでしょう。また、先日は本屋さんに行きますと、「柳井正の希望を持とう」という本が平台に並んでいました。新聞広告にも載っていましたが、こうした動きなども「ユニクロ…光と影」の出版と無関係ではないでしょう。
 やはり「ユニクロ…光と影」で被ったマイナスイメージを払拭するために出版されたのではないでしょうか。表紙に映っている柳井氏の純真そうな笑顔がそれを物語っています。
 この柳井氏の対応を見てもわかるように、イメージを構築するのはとても大切です。そして、イメージを発する順番はとても大切です。野田氏もそれを意識したからこそ、党首になった最初に「どじょう」という言葉を使ったのでしょう。最初に、よいイメージを与えることはとても大切です。反対に言うなら、イメージの順番を間違えると大きな損失を被ります。だって、順番を入れ替えたら「イジメー」ですから。
 じゃ、また。




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