<選択>

pressココロ上




 先月の終わりのことですが、奇妙な体験をしました。
 仕事関連で駐車場が必要になり最初にインターネットで探すことにしました。ヤフーの検索で「地域名」そして「駐車場」と入力しますと、当然のごとく検索結果が表示されます。その中から「役に立ちそうなサイト」を選択しクリックしますと、それなりに有意義な情報が記載されたサイトにたどり着きました。しばしの間、そのサイトを活用して検索結果に戻ろうとしたそのときに、何気なく右端の広告が目に入りました。僕が驚いたのはその広告の内容でした。
 普通、ヤフーやグーグルの検索を利用しますと、検索結果には検索結果とともに上部や右端に「スポンサー」として検索語句に関連した企業の広告が表示されます。しかし、広告が表示されるのは検索結果の画面に限ったことではありません。僕のサイトもいろいろな箇所に広告を張り出していますし、多くのサイトで広告が表示されています。ですが、検索結果に表示される広告と僕のサイトのような広告では大きな違いがひとつあります。それは、関連性です。
 検索結果に表示される広告内容は「検索語句」に関連していますが、僕のサイトも含めて一般のサイトの広告はサイトの主題となっている内容に関連している広告が表示されます。つまり、サイト作成者の意図に基づいた広告が表示されていることになります。一般サイトのほとんどの広告がそのようになっています。
 例えば、そのサイトが「保険」について説明してあるなら「保険に関連した企業」の広告ですし、「印刷」について説明しているサイトであるならば「プリンターやインクに関連した企業」の広告です。
 このように、サイトに表示されている広告は「サイトに関連した広告」が表示されるのが一般的です。もちろん、このシステムは「広告」という特性上理に適っています。無闇に広告を流しては効果が上がるはずもありません。やはり、Aという商品はAという商品に興味のある人に広告を見てもらうのが最も理想的な広告の出し方です。検索結果に表示される広告も同様です。検索語句に関連した広告は、検索語句とつながりのある商品の広告が表示されるのが効率的です。
 中には、サイトの主題とは無関係の広告が表示されることもありますが、それもあくまでサイト作成者の意図によるものです。どうしても広告を出したいものがある場合はそのようなケースがあっても当然です。ですが、そのようなケースでもその広告に閲覧者の考えや意思などが影響を与えることはありません。
 ですが、僕が先月体験したのはこれまでと違ったことでした。駐車場を検索し、検索結果に出てきたサイトに移動したところ、そのサイトに駐車場と全く関係のない広告が表示されていました。しかし、僕が「全く興味がないか」というとそうではありません。なぜなら、その前日僕は、検索で「その広告されているもの」を調べていたからです。
 具体的に言いますと、僕は前日「電気ドライバー」について検索していました。常連の読者はおわかりのように僕は日曜大工が好きですが、小さくて安い電気ドライバーが欲しくなっていました。それで探していたわけです。そうした僕の行動を元に広告が表示されたのは間違いありません。ネットの世界だからこそできる業と言ってもいいでしょう。
 僕は、常々「情報を得るのにネットはとても便利だ」と思っています。それは、自分がなにかをしたいときにネットから有益な情報を得て利用することが多いからです。最近では、地デジアンテナへの移行をする際に、ネットの情報はとても参考になりました。また、ちょっとした病気なども症状から調べて適切な対処も調べることができます。
 こうしたことから、一般人にとってネットはとても意義がある、と思っていましたが、先月体験した「サイトの主題に関連性のない広告」の表示は僕に違う考えも持たせました。
 実は、僕はネットを「利用している」ようでいて、本当はネットに「利用されている」という考えです。「管理されている」でもいいかもしれません。ネット上には、僕という個人の趣味趣向が全て蓄積されているのです。だからこそ、最近僕が興味を持った商品の広告が僕を追いかけていけるわけです。
 ネットの情報を活用するということは、僕が「ネット上でのいろいろな情報の中からひとつを選択してその後の行動を決めていることになります」が、「いろいろな情報」と自分では思っていても、実際はネットから提示された幾つかの中から択一しているに過ぎない可能性もあります。これでは、「いろいろな情報」ではなくなってしまいます。ネットが提供した情報の中からしか択一していないことになります。やはり、択一するからには、「真に公平で平等な情報」から選択したいものです。
 そのような状況で択一した結果であるなら、仮に択一に間違いがあっても後悔しないというものです。後悔しないことはとても大切です。
 先週、気になるニュースがありました。僕は以前、このコラムで「震災時に福島県のある幼稚園が避難の判断を間違ったために、遺族から賠償を求められた事件」を紹介しました。先週の気になるニュースも同様な内容でした。今回は幼稚園ではなく、小学校の対応が過っていたために児童が被災した、ニュースでした。
 僕はこのようなニュースを見聞きするたびに違和感を持ちます。それは、批判が「常に結果論を言っているに過ぎない」と思えるからです。もしかしたなら、遺族の方々が訴えるように「判断に過ちがあった」かもしれません。ですが、そのときのその状況で誰でもが正しい判断ができるか、という疑問です。結果論で当事者の責任を追及するのは不公平です。
 震災の報道などで、小さな扱いにしかなりませんでしたが、先月の終わりに日債銀粉飾決算事件の差し戻し控訴審判決の報道がありました。僕には、この事件も結果論で起訴されているように思えてなりません。実は、今回のテーマを選んだのはこの記事が記憶に残っていたからです。複雑な経営環境があり、逃れられないしがらみがある中でひとつの選択をすることはとても難しいものです。それを、結果が悪かったからといって断罪していては誰もリスクのある行動を取らなくなってしまいます。
 経営にしろ政策にしろ、当事者でない人は当事者に対して謙虚な姿勢で相対するのがマナーと考えます。そうでなければ、当事者への批判に対して、当事者が敵うことなどできません。
 ところで…。
 選択の幅が広がることは、それだけ自由の度合いが高いことでもあります。北朝鮮などを見ていますと、自由などないように見えます。こんな不幸な生活はありません。それに比べ、法を犯すのでなければ、なにをするのも自由な日本は素晴らしい国です。
 つまり、自由は広がれば広がるほど選択の幅が広がることを意味しますが、悲しいことに、「自由であればあるほど、自分の能力に縛れる」という現実が目の前に現れます。人生って難しいですね。
 じゃ、また。




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