<ゼロサムゲーム>

pressココロ上




 先週は経済界で注目を集めた事件が2つありました。ひとつはオリンパスの英国人元社長と現経営陣の対立です。今のところ、英国人元社長に「部がある」印象ですが、今後の展開によってはオリンパスの将来を揺るがす事件になるかもしれません。
 あとひとつは大王製紙という企業の創業家御曹司の不正融資問題です。コーポレートガバナンスという言葉が頻繁にマスコミに取り上げられるようになってから、かれこれ十年以上が経ちます。そんな時代に、まだこのような事件が起きることが不思議な感じがします。100億円以上の融資がなんのチェックも働かずに行われていたことに信じがたい気持ちがあります。どれほどコーポレートガバナンスが叫ばれようと、結局はなにも変わっていない企業がたくさんあることの証左です。今回の事件はまさにそうした経済界の実状をあからさまにしました。
 それにしても製紙業界という業界は前近代的な風土が色濃く残っている業界のようです。僕がそれを実感したのは、テレビニュースの映像で大王製紙の企業ロゴを目にしたときでした。そのデザインは創業家である「井川」の文字そのものをあしらっているロゴでした。記者会見で現社長が、「創業家に逆らうことはできなかった」と話していましたが、それを裏付けるようなロゴのデザインです。
 そういえば今から約20年前、ゴッホの有名な絵をオークションで落札し、「俺が死んだらゴッホとルノアールの絵も一緒に荼毘に伏してくれ」と発言して世界中から批判されたのも大昭和製紙の斉藤了英会長でした。こうしてみますと、製紙業界という業界は前近代的産業の典型的な業界のようです。それにしても、今の時代を考えるとき、やはり異常としか表現のしようがない実状です。
 今の若い方はご存知ないかもしれませんが、80年後半に経済界ではコーポレートアイデンティティ、いわゆるCIが流行りました。横文字が並ぶと高尚な感じがしますが、簡単に言いますと、企業名やロゴ、もしくはデザインを変えただけでした。今の「ゼロックス」や「オリックス」などはそのときに作られたものです。
 話は少し逸れますが、企業名やロゴを変える企業があとを絶たなかったので、コピーライターという職業が最ももてはやされた時代でした。それはともかく、そんな経済界の流れがありながらも、大王製紙が創業家の名前をそのまま企業ロゴに使っていたのが前近代性の極みを象徴しているように感じられます。
 コーポレートガバナンスは、究極的には「企業は誰のものか」という難問に行き着きますが、経済界ではない分野でも「誰のものか」を考えさせられる記事が朝日新聞に連載されていました。大阪府教育基本条例に関する記事です。
 「教育は誰のものか?」と問われれば、たぶん全員が「子供たちのもの」と答えるでしょう。この答えは誰もが同じはずですが、具体的対策になりますと全員一致とはいかないのが戦後ずっと続いている教育業界です。
 昔は「でもしか先生」という表現が言われました。先生に「でも」なろうか、とか先生に「しか」なれない、という意味合いで使われた表現です。つまり、先生に対して落胆している世間一般の気持ちを表しているのですが、あながち的外れでもない事例もありました。教師という職業に熱心に取り組んでいない先生の存在がいたのも事実です。
 現在でも、現役の先生が起こす信じられない事件がときたまマスコミで報じられますが、「そんな事件を起こす人が先生をやっているのか」という気持ちが世間一般の気持ちではないでしょうか。そこまで極端でなくとも、「もっと教育者として頑張ってほしい」という気持ちが正直なところのように思います。「でもしか」で先生という職業を選んでもらっては困ります。
 大阪府基本条例が目指しているのは、先生という職業に競争原理を持ち込もうとするもののようです。確かに、競争原理が働けば「でもしか先生」はいなくなるでしょう。しかし、個人的には諸手で賛成できない気持ちもあります。競争原理は経済界のシステムですが、教育界に経済界のシステムをそのまま持ち込むことへの不安です。経済界と教育界を同じ土俵で論じることは不適切のように感じます。 
 この不安を感じるとき、僕は故・池田晶子氏の言葉を思い出します。以前、このコラムでも紹介しましたが、哲学者池田氏の言葉は教育業界の核心をついているように思います。二度目ですが、ご紹介します。
 ある親が「お金は生きるうえでとても大切なことなのに、どうして学校では教えてくれないのか?」と池田氏に質問をしました。それに対して池田氏は答えます。
「生きる上で、大切なのはお金ではないと教えることこそが教育です」
 僕は、どんな業界であろうと、どんなシステムであろうと絶対に必要なのは「平等」だと思っています。そして、その「平等」を担保するのは「選択の自由」です。
 飲食業の世界では「誰が食べてもおいしい味はないが、誰が食べてもまずい味はある」が基本ですが、同じように教育の世界でも「誰にとっても素晴らしい先生はいないが、誰にとっても不適格な先生はいる」が基本だと思います。
 もちろん「誰にとっても不適格な先生」は排除されるべきですが、考えなければならないのは「誰にとっても素晴らしい先生はいない」という現実です。それを補うためには選択の自由がどうしても必要です。「学校」もしくは「先生」を選択する自由、それこそが「教育は子供たちのため」を実践する方法です。
 大阪教育基本条例が教育現場に競争原理を持ち込もうとするのは、現在の教育現場に競争原理がないことの証でもあります。競争原理という言葉はどうしても悪いイメージがありますが、競争原理とはサービスを受ける側にとっては「選択する自由」が増えることでもあります。その意味では、僕は教育業界に競争原理を持ち込むことには賛成です。しかし、それだけを強調することに不安を感じるのは先に書いたとおりです。
 さて、そろそろ僕の結論を書きますと、教育業界に競争原理を持ち込むことは賛成ですが、そのことを「選択する自由」も同時に与えてほしい、というものです。今、大阪府が提出している条例には「選択の自由」が欠けているように思います。僕のいう「選択の自由」とは先生、子供の両方にとっての自由です。
 先週のコラムで僕は、弱肉強食をテーマにしましたが、自然界の道理にはゼロサムゲームという側面もあります。自然界では動物にしろ植物にしろ、なにかが得をすればその分なにかが損をしているように思えます。その自然界の道理を教えつつ、人間社会はそれだけはないことを教えるのが教育ではないでしょうか。僕は、そんな気がしています。
 ところで…。
 新聞の特集で大阪教育条例について記事が連載されていたわけですが、紙面にはいろいろな業界の方が自分の意見を述べた記事がありました。その中に作家のあさのあつこさんの意見が印象に残りました。
 あさのさんは講師として小学校で教鞭をとった経験があるそうです。そのときの苦い思い出を紹介していました。
 講師を辞める時、女の子に「先生はいい加減だから嫌いだった」と言われたそうです。
 あさのさんは「手を抜いた覚えはないけれど、作家志望でものを書く時間が取れそうだと教師になったのを見抜かれていた」と感想を書いています。僕は、ここに先生という職業の問題点が凝縮されているように思います。
 「人に教える」という行為は、いくらでも自分で手加減できる、という事実です。特に、相手が子供であればあるほどそれは可能です。僕はそこに先生という職業の難しさがあると思っています。
 僕は主張します。もし、本当に目指している職業がほかにある人は、講師であろうと正式な先生であろうと、「教える」という職業に就くべきではありません。「教える」という行為は、それほど神聖で厳粛な行為であることを自覚して、先生という仕事に従事してほしい、と思っています。
 じゃ、また。




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