<公務員の教師>

pressココロ上




 報道特集という番組で元大阪府知事、現大阪市長の橋下氏が代表を務める「大阪維新の会」が掲げた教育改革について報じていました。教育改革の核心は現場で子供たちと接している教師改革にほかなりません。橋下氏の改革は刺激的な内容が多いですが、それについて元杉並区立和田中学校校長藤原和博氏は「本当の目的は、公務員改革である」と語っています。
 話は少しそれますが、藤原氏は肩書きに苦労している節があります。マスコミに登場するときはいつも先の「元和田中学校校長」という肩書きですが、これは藤原氏が本来欲している肩書きではないはずです。しかし、マスコミ側としては世の中に一番浸透している肩書きを使いたがる傾向がありますから、この肩書きはマスコミに求められての名称でしょう。たぶん、藤原氏ご自身が希望している肩書きは「ビジネスノウハウコンサルタント」ではないでしょうか。
 それはともかく、橋下氏が考えているキーワードは「教師」と「公務員」です。つまり教師は教師でも公務員の教師に対する改革です。ですから、私立学校の教師は含まれていません。その理由は至極簡単で、私立は学校といえども民間ですからリストラもありますし、学校の倒産という悲劇的な結末もあり得ます。つまり自然界に厳然として存在する弱肉強食の原則が当てはまる業界です。
 自然界では弱肉強食が自然です。そして、その法則が取られているのが民間の産業界です。競争に負けたなら淘汰されるのが民間です。当事者にとってはとても厳しい世界です。それと正反対な社会が公務員の世界です。ですから、今回コラムで取り上げる教師とは公務員である教師を指しています。
 基本的に公務員の世界は競争とは無縁の世界ですが、その世界でも最も競争の原則から離れているのが教師の世界です。一生懸命働いている教師とそうでない教師に差がつかない世界です。このような世界が民間に比べて厳しさが足りなくなるのは当然です。理由はもちろん「競争がないから」です。そして、このような状況で損失を被るのは子供たちです。
 しかし、最近では一昔前ほど甘い世界ではなくなっていることも事実です。一昨年だったと思いますが、中学校の新任女性教師が自殺した事件がありました。その新任教師は生徒の親御さんからのプレッシャーや校長など管理者からのプレッシャー、そして先輩教師からの心無い叱咤などが自殺理由のようでした。
 僕がこの事件で最も不快に思ったのは先輩教師が発した心無い叱咤の言葉です。普通、「叱咤」とくれば「激励」があとに続くものですが、この先輩教師の叱咤には激励の要素が微塵も感じられない傷つけるだけの言葉でした。まさしく暴言と言ってもよいほど新任教師を傷つける言葉でした。僕は新聞でこの先輩教師の言葉を知ったときには怒りさえ覚えました。間違っても、先輩教師が新任教師にかける言葉ではありません。
 僕は、このような先輩教師が学校に勤めていられること自体が教師の世界が改善されなければならない証拠のようにも感じました。この先輩教師は新任とはいえ同僚である教師にさえ暴言を吐くのですから、生徒たちにも心無い言葉を投げつけていた可能性は高いように思います。このような人間性に問題のある教師が教師でいられることほど子供たちにとって不幸なことはありません。
 また、問題は教師として相応しくない人間の存在を許している周りの教師にも責任があります。つまり、教師の世界が作り出す環境全体に責任があるといってもよいでしょう。
 橋下氏の改革はこのような教師に相応しくない人間が教師でいられること、そして、そうした環境を作り出している教師の世界を変えることが目的のように思います。僕はこの考えに賛成です。
 ところが、報道特集という番組では橋下氏の考えは生徒たちから批判されていました。理由は、改革の骨子が教師の世界に競争原理を持ち込むのと同様に、生徒たちにも競争原理を煽る内容になっていたからです。
 ある女学生は「生徒たちに競争を煽ること」について反論していました。橋下氏の主張は「生徒たちを人間ではなく、競走馬のように考えている」と批判していました。このときの女学生は半分涙声になりながらの訴えでしたが、その純粋さには一理あるようにも思えました。
 以前紹介したことがありますが、哲学者の故・池田晶子氏は、
学校に対して
「今はお金に関する知識が重要な社会なので、学校でももっとお金に関することを教えてほしい」という親御さんの要望に対して、
「生きる上で大切なのはお金ではないと教えることが教育」
 と喝破していました。これほど教育の核心をついた言葉はありません。
 先ほど、元和田中校長の藤原氏について紹介しましたが、藤原氏は校長時代に「よのなか科」という科目を作り話題を集めました。よのなかの動きを具体的に学び、社会を知ることが目的の授業のようでした。そのひとつに「企業が利益を出す方法について学ぶ授業」もありましたが、僕は違和感を感じていました。
 しかし、僕は違和感を感じながらも、「なに」が違和感なのか今ひとつ捉えきれていませんでした。そう。ただ漠然と「なんか違うような…」。
 そのときに出会ったのが池田氏の言葉でした。この文章を知ったとき思わず膝を叩いたほどです。
 僕は橋下氏の考えや主張に賛同する点が多いのですが、教育関係については違和感がありました。先ほどと同じように「なに」かは分からなかったのですが、核心は同じです。学校はいろいろなことを学ぶ場であり考える場であり、他人との違いを体験する場です。決して競争をする場ではないはずです。「学び」に競争は不似合いです。「学び」を競争するのは偽学ともいえるものです。「学び」の本来の目的を失うことになります。偽学で育った大人が日の当たる場所を闊歩する社会が平等で健全な社会になるはずがありません。
 橋下氏は競争原理を持ち込むことで、問題のある教師を排除したり、生徒の学力を向上させようとしました。しかし、このふたつの項目を同列に論じるは適当ではありません。前者は仕事ですので大人、社会人の世界ですが、後者は教育というまだ「学び」の世界です。この二つを同列に捉えるのは無理があります。
 つまり、僕の主張は、同じ教育という現場にいながら全く対極にある教師と生徒には取るべき対策を変えなければいけないということです。教師の世界に競争原理を持ち込むことには賛成ですが、生徒の世界には競争原理は不適切です。
 先のテレビ番組では、約10年前に競争原理を導入した米国の現状を報告していました。一口で言いますと「失敗」だったようです。わざわざ失敗している方策のあとに続く必要はありません。
 ところで…。
 先週、教師に関するニュースで興味を引いたのが「校長が卒業式で国歌を歌わなかった先生」を調べていたニュースです。これは本当に笑いたくなるお話ですが、大の大人が大の大人の口元を「ジッと見つめ」歌っていたかどうかを確認していたというのですから、学校というレベルの低さがうかがえます。このような学校世界はやはり改革される必要があります。
 それにしても、もし国歌でなく違う歌を歌っていたら、それは処分の対象にならないんですかねぇ…。
 じゃ、また。




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