<オオカミ少年>

pressココロ上




 僕は今、仕事が早いので毎日朝5時に起床しています。ずっと昔、タクシーに乗っていた頃は4時に起きていましたが、これだけ早い起床は久しぶりでしたので「起きれるか」少し不安がありました。けれど、やってみると意外とできるもので、それほど苦労することなく早起きできています。もちろん、愛する妻の力も借りてですが…(笑)。
 朝早く起きるようになりますと、今まで見ていなかったテレビ番組というものを見るようになります。といっても、出勤するまでの30分ほどの短時間ですが。
 早朝はゴールデン時間帯と違い視聴率をあまり気にしなくてもよいようで、ちょっと堅めの内容の番組もあったりします。僕が気に入っているのは、フジテレビで毎週土曜日に放映している番組です。この番組は、テレビというかメディアというか、マスコミ全体についての検証をする番組です。このような番組で、今の時期に取り上げるのはやはり東日本大震災の報道についての検証です。先週は、マスコミは震災をどのように伝えたか、と検証していました。
 いろいろな立場の人が報道やメディアについて意見を述べていますが、既存のマスコミ関係者以外の方々の意見を僕なりに総合しますと、「偏らない」だと思います。例えば、なんどもテレビで報道される地域がある一方、全く報道されない地域があるそうです。こうした傾向は、テレビなど既存のマスコミが陥る最も大きな欠点だと僕は思っていますが、できるだけ取材を経費をかけずにやろうとする意識が心底にあるからではないでしょうか。
 また、既存のメディアは情緒的な側面を前面に押し出す傾向があります。これもバラエティやドラマ同様、視聴率を取ることが無意識に働いているからだと想像します。こうした既存マスコミの傾向が、結局はマスコミがひとつの流れを作ることにつながります。これは世論操作といえるかもしれません。
 一例を上げるなら、どのテレビ局を見ても震災報道で前面に出すのは「絆」でした。被災者には各人ごとにいろいろな思いがあるはずですから、「絆」と一言で括るのは本当は無理があるはずです。それにも関わらず、「絆」を前面に出すのはそのほうが視聴者にアピールしやすいからであり、番組を作りやすいからにほかなりません。しかし、それでは真実を伝えていることにはなりません。
 同じような感想を先週持ったのが長崎県ストーカー事件に対する警察対応に対する報道姿勢です。ほとんどのマスコミがいっせいに批判していたのが千葉県警の慰安旅行でした。確かに、助けを求めた被害者家族に対する警察の対応は大きな不満が残るところです。しかし、この不満は警察というよりも公務員全体に共通する問題点です。先週も書きましたが、大阪市の橋下市長が取り組んでいるのはまさにこの改革です。
 それはともかく、この警察の相談者に対応する不手際というか無神経さというか、そうした不誠実さには憤りを感じますが、それと慰安旅行を結びつけるのには違和感があります。このふたつの出来事を結びつけるとき、僕は大衆迎合という言葉が浮かびます。テレビで警察幹部が記者会見に出てきて「危機感に乏しい」と厳しい表情で話している姿を映していましたが、これなども大衆迎合がさせる行為でしょう。
 どんな職場であろうと、慰安旅行に行くことくらいはあるはずです。もし、相談者がいるからという理由で慰安旅行を中止するなら、慰安旅行に行けるときなどはないのではないでしょうか。そのような相談者が訪れるのが警察ですから、ひっきりなしに相談者が訪れているはずです。
 こういうときに考えなければいけないのは、「相談者を不安にさせないような対応をとるシステム」についてです。もし、勤務時間中に慰安旅行に行っていたなら言語道断ですが、きちんと事前に申請をしていた慰安旅行なら批判は的外れです。
 仮に、警察を批判するなら、相談者が「不安に感じる対応をとること」になんとも感じない感覚に対してです。民間の小売業やサービス業に携わっている人たちならこのような感覚はあり得ません。仮に、そのような感覚を持っている企業があるとしたなら、その企業は間違いなく潰れてしまいます。配慮の足りない無神経さは公務員の仕事に対する甘さの最大の問題点です。
 最近のマスコミをにぎわせているニュースに消費税増税がありますが、この報道に関しても同じ過ちを繰り返している気がしてなりません。民主党内にも反対派がいますが、政党に関係なく反対派は増税反対の理由に相も変らぬ決まり文句を唱えています。
「増税をやる前に、やることがある」「まずは無駄を削ってから…」
 今までなんど聞いてきた台詞でしょう。民主党はこの台詞の非現実性を政権を取って以降ずっと証明してきました。「増税をやる前にやること」に反対する人たちいかに多く強く、その人たちを説得することがどれだけ難しいか。そして、事業仕分けでは「無駄を削って」も財政再建に貢献する財源の確保には程遠いことを教えてくれました。いつだったか、野田首相は「政権党になったら事情が違う」旨の発言していましたが、これほど無責任な発言はありません。
 最近はあまりマスコミでも報道されませんが、沖縄普天間基地問題も、同じような構図でした。非現実的な「基地を県外へ」というマニフェストが沖縄県民や日米安保関係者の心を逆なでしました。結局、未だなにも決まらず混迷したままです。
 僕の見立てでは、今の民主党は官僚に手綱を引かれているように見えます。野田首相が消費税増税に突き進んでいるのがその一番の表れですが、野田首相が財務省の思惑通りに操られていると感じるのは僕だけではないでしょう。僕は今の進む方向が悪いとは思っていませんが、その進む方法が民主党の当初の考えと逆の方法で進んでいるのは納得できません。
 しかし、これは民主党に限った話ではなく自民党も同じでした。自民党が下野したのも元はと言えば官僚政治から脱皮できなかったからです。その意味で言いますと、やはり小泉さんはすごかったと今さらながら思います。さらに過去に遡ってみますと、田中角栄首相の政治家としての手腕の高さも凄かったと思わずにはいられません。
 田中首相を語るとき、必ず出てくるのが「官僚の使い方」のうまさでした。官僚の名前を覚え家族にも配慮を忘れず、そのようにして官僚を次々と自分シンパにしていく様は人身掌握術のお手本と言われていました。つまり、どれだけ官僚を自分の味方につけるかの大切さをわかっていたことになります。そこが、たたきあげでない政治家との違いではないでしょうか。
 僕でさえ、「増税をやる前に…」や「無駄を削って」の常套句を覚えているのですから、政治家の側にいるマスコミ人の方々が覚えていないはずがありません。それにも関わらず、その常套句をそのまま報じるのは無責任です。一般の人たちにこれらの理由の誤謬性を指摘するのもマスコミの責任ではないでしょうか。
 「オオカミが来た~」をなんども嘘を叫んでいると誰も信用しなくなります。イソップ寓話「オオカミ少年」では、羊飼いの少年は、最後は本当にオオカミが来ても誰も信用せず、助けてもらえませんでした。
 さて、オオカミ少年は政治家か、マスコミか、はたまた大衆か…。
 ところで…。
 僕が今、You Tube でハマってるのはハマショーの「とらわれの貧しい心で」です。この歌の歌詞は噛めば噛むほど味が出てきます。ごく普通に生活を営んでいる庶民の生きる迷いを天上から俯瞰するような感覚で歌っています。
 歌詞にある「怪しげなイカサマ師たちさえも悲しみに…」などは、悪人もなりたくて悪人になったのではないことを示唆していますし、親鸞さんの境地さえ思い浮かびます。わずかこれだけの歌詞の中にそのスケールの大きさが詰め込まれています。
 僕には「気に入った歌を繰り返しエンドレスで聴く」性向があります。この「とらわれの貧しい…」でもこの性向を遺憾なく発揮しました。しかし、僕の妻は不機嫌になりました。理由は、僕と正反対で「くり返しエンドレスで聴く」ことが不愉快だからです。
 こういうとき僕と妻は対立するわけですが、よく考えればこんなチマチマしたことにとらわれるのは、それこそ貧しい心であることで、そんな貧しい心でものごとを考えることもまた虚しいことだ、とまぁそんな気持ちにさせられる歌詞です。
 でも、まぁ、貧しい財布と心の持ち主の夫婦なので、仕方のないこととあきらめています…、ハイ!
 じゃ、また。




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