<出口>

pressココロ上




 以前、僕はこのコラムでPB(プライベートブランド)商品について書いたことがあります。そのときのきっかけは大手スーパーがPBを大々的に販売している光景を目にしたことでした。なにしろ、売り場で一番売れる場所を全てPB商品で占めていたのですから、異様な光景でした。このように書くのですから、もちろん、僕は批判的な意図を込めてコラムを書きました。
 あれから月日が流れスーパーの売り場を見渡しますと、PB商品は完全に売り場の居場所を確保した、という感が強くあります。その理由はなんと言っても、昔と比べ商品の品質が高くなったことに尽きます。
 「昔」とは1970年後半から80年にかけてですが、当時のPB商品はとてもシンプルな作られ方で、大手スーパーが商社に依頼して人件費の安い東南アジアなどで作った商品を輸入する形でした。簡単に「スーパーが」と書きましたが、それ以前の小売業ではできない芸当でした。小売業が進化する形でスーパーが登場したことがPB商品が作られるようになった背景です。
 そのような流れで登場したPB商品ですが、当時はまだ品質的には今ひとつの感が否めず、「安かろう悪かろう」と言われても仕方ない代物でした。当時、僕はスーパーに勤め実際にPB商品を扱っていましたが、その僕からしますと、現在のPB商品の品質は隔世の感があります。
 これまでにもPB商品は「出ては消え」を繰り返していました。言い方を変えるならブームといってもいいかもしれません。ですから、いくら「目新しい」として一時期売れていても、そこはやはり、ブームでしたから数年経つといつの間にか売り場から消えていたのが実態でした。
 こうした光景を幾度か見ていましたので、今回のPB商品の登場もブームの可能性も「なきにしもあらず」と僕は思っていました。しかし、今回は間違いなく根付いています。ちゃんとPBとして足が地に着いています。
 このように今回はPB商品が消費者から支持され根付いていますが、その理由はなんといっても品質がいいからです。これまでの経験がそれを教えてくれています。
 僕は、それとともに重要なことがあると思っています。それは売り場の確保です。この点についても以前指摘しましたが、PBに限らず商品の命は「売り場に陳列される」ことです。どんな素晴らしい商品であろうと、お客様の目に届かなければ売れることはありません。
 今週のテーマは出口ですが、モノやサービスといった商品の出口を指しています。商品は出口がなければ、存在価値がありません。出口があってこその商品です。出口を持っているか、押さえているかが商品の勝負の分かれ目です。その意味で、PB商品は元々勝つ要素を備えています。品質が悪くないなら「勝って当然」の環境に生まれてきました。
 古~い話になりますが、アサヒスーパードライが爆発的に売れたとき、一般的には「今までにない味が受けた」と言われていましたが、一番の理由は出口でした。ビールが売れる、またはビールが飲まれる場所が変わったからです。時代の変化によって、酒屋さんという出口からコンビニやスーパーという出口に変わったからです。それまで圧倒的に酒屋さんに強かったキリンが凋落するきっかけとなった出来事でした。なにしろ、それまでキリンビールのシェアは6割を越えていたのですから驚きです。
 このように出口は商品の命運を決める要素です。そして商品とはスーパーなどに並んでいる品物に限りません。僕は、たまに漫画家さんと編集者さんについて書きますが、この世界でも同じ構図があるようです。雑誌や単行本といったメディアという出口を持っている出版社に作家の方々は頭が上がりません。
 僕は以前、漫画家の佐藤秀峰氏について紹介したことがあります。僕は出版界について知りませんので「ことの真偽」はわかりませんが、佐藤氏は出版社や編集者に対する批判を展開しています。佐藤氏の弁を借りるなら、一言でいうなら、編集者は傲慢である、ということになるようです。仮に、それが真実であるなら、それができるのも一重に、漫画の出口である雑誌や単行本といったメディアを持っているからです。スーパーが売り場を持っていることにより、メーカーに強い態度を取れるのと同じです。
 スーパーのバイヤーの前には、売り場に並べてほしいメーカーの担当者が列をなして順番を待っています。メーカーの担当者の頭の中にはもちろんお中元やお歳暮が頭の中に入っているでしょう。
 出版界もメディアのひとつですが、もっと大きなメディアといえば放送界、テレビ界です。そのテレビ界は免許制ですから、出口の数が限られています。そうしますと、自ずとテレビ界の出口としての力が強くなってきます。プロデューサーやディレクターがちやほやされるのも当然です。スーパーのバイヤー以上の権力を持っていることになります。
 ですが、出口が限られていたテレビ界にも時代の流れが押し寄せています。かつて、「高視聴率」といえば優に20%を越えているのが普通でした。しかし、近年では14~15%を指しています。理由は出口の多様化です。先日見た若者の1日の時間の使い方で「テレビを見る」時間は約1時間ほどでした。今の時代は、BSやCSやネットなど出口が多岐にわたっています。出口が増えると、当然ひとつの出口が占めるシェアは低くなります。ですが、出口を探している人たちにとっては選択の幅が広がり好ましいことです。
 このとき出口を探している人とは、出口の内側と外側の両方を指しています。内側とは商品を提供する側のことで、外側とは商品を受け取る側のことです。もちろん、出口が増えることは両方にとって好ましい状況です。僕のこのコラムもそうですが、インターネットの普及で、誰でもが出口を作ることができるようになったことは画期的なことです。
 しかし、このような状況は出口に関係する人たちにとっては喜ばしいことではないでしょう。自分たちの存在が脅かされることにつながるからです。
 ですが、僕はこのような状況を望ましいことと思っています。どんなことでも、選択の範囲、種類がたくさんあるほうが自分が満足する可能性は高くなります。もちろん学校もです。
 先週、僕は自殺した中学生について書きましたが、学校という組織に、またはシステムに選択の自由がもっとあったなら、生徒の自殺はなくなると思っています。例えば、公立であろうと転校が簡単にできたり、授業のやり方もクラス単位でなく、大学のように授業を生徒が選択できたり、先生を選択できたりするなら、イジメは減るでしょう。減るどころかなくなるとさえ思っています。
 20才にもならない子供が自ら命を絶つということほど悲しいことはありません。もし、選ぶ自由がもっとたくさんあったなら、あの生徒も「終わり」を選択することもなかったはずです。出口を選択していたはずです。イジメの出口を選択していたはずです。どんなことでも出口は大切です。僕は次の言葉を思い出します。
「明けない夜はない」
 ところで…。
 今週は出口の重要性を書きましたが、これを読んで一番喜んでいるのは出川哲朗さんかもしれません。
 じゃ、また。




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