<権腐十年>

pressココロ上




 2~3週間前ですが、牛丼の吉野家で社長交代が発表されました。正確には吉野家ホールディング(HD)の社長が交代しただけで、事業会社である吉野家の社長はそのままでした。僕は、「そのまま」が気になりました。
 「そのまま」の社長は安部修仁氏ですが、アルバイトから社長にまで登りつめた立身出世物語は幾度もマスコミに紹介されました。安部社長は吉野家の創業者ではありませんが、吉野家を今のような大企業に育て上げた立役者であるのは間違いのないところです。いわゆる中興の祖といえる社長です。僕には、実質的な創業者と映っていました。
 簡単に紹介しますと、吉野家は個人商店を営んでいた父のあとを受け継いだ松田瑞穂氏が牛丼店の企業化を成し遂げ、一時は米国に出店するほど成長していました。しかし、米国に出店したことも含めて、急激に成長したことが原因で経営の悪化を招き、1980年に倒産しました。その後、セゾングループの支援を受けて再建を果たしましたが、そのときに再建を担ったのが倒産時にアルバイトの身分だった安部社長でした。
 僕は吉野家の軌跡や安部氏が社長になった経緯を本で知ったとき、とても感動した記憶があります。多くの社員が倒産した会社から逃げるように去って行った中で、アルバイトでありながら会社に残り再建するべく身を粉にして奮闘した姿は賞賛されるべきものです。
 吉野家のキャッチコピーは「早い 安い うまい」ですが、その中でも「安い」については強く印象に残っていることがあります。確か、SMAPの中居君がCMをしていたと思いますが、この当時吉野屋はライバルに圧倒的な差をつけて価格を下げました。
 価格を下げることはある意味簡単なことでもあります。なにしろ価格を下げるだけでいいのですから、誰でもできそうです。普通に考えて、価格を下げることは即ち利益を削ることですが、それでもその分を数量の増加で補えば総利益額を同じにすることは可能です。うまくすれば、ライバルよりもシェアを増やせるかもしれません。そうしますと、総利益額は「同じ」どころか「増える」ことも考えられます。
 現在でも、いろいろな分野で価格競争は起きていますが、基本的には上記のような展開になっています。ガソリンスタンドなどはこのような状況が端的に表れている業界ですが、その先に待っているのは過剰競争です。結局は、チキンレースのようなものでどこまで我慢できるかが勝負の分かれ目です。もちろん「我慢」とは資金繰りです。親会社や金融機関の対応も大きな影響を与えます。その分かれ目が悪いほうに転ぶなら、倒産という結果が待っています。このようにして業界は寡占化が進んでいきます。先週、ベスト電器がヤマダ電機の傘下に入ることが報じられましたが、電機業界もまさしくこの展開を地でいっているといってもいいでしょう。
 このように価格競争はチキンレースの一面を持っていますが、それとは違う正しい「価格引下げ」もあります。中居君がCMをしていたころの吉野家はそれを実行していました。
 簡単に言いますと、利益を減らさずに価格を下げるシステムを作ったことです。こうした「価格引下げ」はチキンレースとは一線を画するものです。利益を削ることによって実現した「価格引下げ」ではないからです。価格を下げることの裏づけとなるシステムの構築ができたことが重要です。当時の経済誌に安部社長の会見の様子が報じられていましたが、その語り口からは安部社長の自信満々な様子が伝わってきました。この当時の安部社長は輝いていました。
 絶頂期の頃の吉野家にはM&Aの話が各方面から舞い込んできていましたが、印象に残っているのは「はなまるうどん」と「びっくりラーメン」です。どちらも業績が低迷していたことが買収要請の理由ですが、「安部社長にお願いすれば再建してもらえる」という風潮があったことが土台にありました。それほど安部社長は時代の寵児でした。
 安部社長はいろいろな企業を買収しましたが、再建に成功した企業もあれば失敗した企業もあります。今回吉野家HDの社長に就任しました河村泰貴氏は「はなまるうどん」の社長でしたが、この人事をみてもわかるとおり「はなまるうどん」は成功事例です。反対に「びっくりラーメン」は再建ならず解散しました。
 僕は、このような結果を見ながら思いました。経営者として優れている人物が経営したとしても、成功する場合と失敗する場合があることの不思議さです。たぶん、再建のやり方も経営方法も同じだったはずです。それが通用するときとしないときがあることが不思議でした。しかし、産業界を見渡してみますと、セブンイレブンの成功で小売業界で最も優れていると評価が高い鈴木敏文氏でさえ、ヨーカドーの経営においては成功しているとはいえないのが実状です。そうしたことから考えますと、どんなに優れた経営者であろうと、必ず成功するとは限らないようです。そして、この事実は経営における成功と失敗を決める要因が経営者の資質だけではないことを示していることでもあります。
 今回、吉野家HDの社長が交代したのは、業績が芳しくないからです。安部氏が「若返り」と説明しても、僕からしますとすき家に差をつけられているからとしか映りません。そうです。現在の吉野家は「すき家」「松屋」に続いての3番手でしかありません。かつての栄光はかすんでいます。
 その理由について、僕は「こだわり」ではなかったか、と思っています。僕の印象では、業績が落ち込んだ最初のきっかけは米国でのBSE問題でした。ライバルが牛肉の調達先を柔軟に変更する中、最後まで米国産牛肉に「こだわった」のが躓きの最初だったように思います。
 安部氏はマスコミを上手に利用することにも長けています。先に紹介しました「システムを確立した低価格」を発表する会見もそうですが、米国産牛肉にこだわる理由を訴える会見など、うまい広告宣伝でした。しかし、その方法がいつも通用するとは限らないのが経営の難しさです。
 次に「こだわり」を感じさせたは単品経営でした。ライバル社が牛丼以外のメニューにも力を入れる中、牛丼だけにこだわっていた時期がありました。僕は、この時期の安部社長を見ていて、「過去の成功体験を捨て去れ」という格言を思い起こしていました。かつて読んだ経営指南書によりますと、「人はかつて成功した体験から中々抜けきれない」そうです。まさしく安部氏はその負のスパイラルに陥っているようでした。
 今、「ライバル社が牛丼以外のメニューに力を入れた」と書きましたが、これは単にメニューだけの問題ではなく、対象とする客層を変えたことも示しています。僕は、この点のほうが大きな意味を持っている、と考えています。吉野家は主に男性個人を客層にしていますが、すき家は家族を客層にしました。この変更はとても大きな意味があります。
 簡単に客層の変更といいますが、そのためには店内のレイアウトも変更する必要があります。カウンター席だけでは家族を客層にすることはできません。テーブル席があってこその家族客層です。そして、それを実現するには店舗の広さも関係してきます。
 こうしたことから考えますと、それまで男性個人を客層としてきた吉野家が客層を家族にまで広げるのが容易でないことがおわかりになると思います。それをわかっているからこその社長交代のはずです。ですが、安部氏は事業会社の吉野家の社長には留まりました。しかも、HDの代表権のある会長にも就任しています。僕はこの人事を見て、ロシアのプーチン大統領を思い起こしました。プーチン氏は大統領から首相になり、そしてまた大統領に就任しました。この人事の流れは良識のある人なら誰が見ても不見識と感じます。
 ロシアの大統領は2期までという制限がありますので、そうした制限をないがしろにするためのメドヴェージェフ大統領でありプーチン氏の首相就任でした。こうした政界を見ていますと、ロシアが政治の面において健全であると納得する人は少ないでしょう。
 僕は、吉野家HDの今回の人事に同じ影を見ました。国家は簡単に潰れませんが、民間企業はそうではありません。やり方が間違っているとすぐに業績に表れます。安部氏は「権腐十年」という言葉を噛み締めるべきだと僕は思います。
 ところで…。
 「権腐十年」とは「権力は十年もすると腐敗すること」ですが、今週本コーナーで紹介しています「いちばん大事なこと」の著者である養老孟司教授も同じような警告を発しています。僕は養老先生が好きですが、先生の本を読んでいますと、「目から鱗が落ちる」ことがたびたびあります。
 この本の中で、先生は原理主義の危険性を指摘しています。それは、「絶対に~でなければならない」という思い込みで、僕からしますと「自分主義」と思えるほど、ほかの人に対する慮りが欠如しているのが原理主義です。
 キリスト教にしてもイスラム教にしても、危険分子はそれぞれの原理主義者です。原理主義者は「それ以外は認めない」考えですから、他人を傷つけることも平気です。オウム真理教もそうでしょうし、米国の3.11事件もそうした分子の仕業です。
 先生は原理主義のなにがいけないか、について「なにも考えなくていいから」と言っています。原理主義ですから、どんなことが起きてもあっても原理にそった行動を取らなければいけないのですから、考える必要がありません。先生は「考えないこと」が一番いけないことと強調しています。
 権力に限らず、同じ立場や環境に長い期間いますと、自然と考える必要性を感じなくなってきます。なぜなら、同じ経験を幾度もしていますから、対処法も決まってくるからです。しかし、それが正しいとは限りません。というよりは、マンネリ化した対応で進歩がない、といったほうが適切な表現かもしれません。川は流れているから澄んでいるそうです。
 このように考えますと、「十年で腐る」のは権力だけに限らないようです。人間そのものもひとつ間違えると腐る可能性もあります。もしかしたら、僕はもう5回も腐っています。
 じゃ、また。




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