<職人意識>

pressココロ上




 パソコンが遠隔操作をされたことにより全く関係のない人が逮捕された事件について、僕は誤認逮捕に至った経緯についてマスコミは徹底的に追求してほしいと願っていました。その後の展開をみていますと、一応は追求する方向に進んではいますが、今ひとつ満足できない点があります。
 警察や検察は逮捕をした人たちに謝罪することを表明していますが、単に「謝罪すればいい」ということではないはずです。先週も書きましたが、一番の問題は「犯罪を認めた容疑者」がいたことです。その原因を検証しない限りこの事件を終了させてはいけないと思っています。
 どんなに警察や検察が弁解をしようと「犯行をやっていない人」が「犯行を供述した」のですからそこに警察・検察の誘導もしくは脅しがあったのは明確です。犯人でない人が犯行を供述したのですから本来ならあり得ないことです。そのあり得ないことが実際に起こったのですから、この点だけはきちんと検証しなければまた同じことが繰り返されるのは間違いありません。
 昔、「落としの名人」と言われた刑事がいました。平塚八兵衛という人ですが、ドラマなどにもなっていますからご存知の方も多いでしょう。いわゆる「伝説の刑事」というわけですが、まさしく刑事の職人といった趣です。このような刑事に憧れて警察官や刑事を目指した方もいるはずです。
 このような伝説の刑事がいますと、自分もそうなりたいという気持ちが起きても不思議ではありません。伝説の人になるには恵まれた才能と相当な努力が必要なはずです。僕は伝説になった経験がありませんから想像だけですが、きっと才能と努力は不可欠でしょう。
 しかし、そのどちらもない人間が外側だけを真似て実際の行動をとってしまっては迷惑を受ける人が出てきます。迷惑ならまだしも損失や損害を受けてしまってはその影響はあまりに大きすぎます。今回の誤認逮捕にはそうした面が少なからずあるように思えてなりません。
 外見だけでも伝説の人になりたい、という願望です。そうでなければ「やってない人」が「犯行を認める」供述書など作成できるわけはありません。無理やり自白させた背景には刑事としての誤った職人意識が働いていたのではないでしょうか。
 職人という言葉から連想するのは料理・調理業界ですが、その言葉には長年プロとして経験してしてきたという自負の念が感じられます。誇りともいえます。
 例えば、寿司職人は手で握った感覚だけで毎回同じ量のご飯を握ることができるそうです。まさに職人業ですが、一般の人ではこのような芸当はできません。
 ここでちょっと寄り道…。
 実は、以前コラムで職人技というテーマで書いたことがあったのですが、その後なにかの本で「職人わざ」というときは「わざ」は「業」と書く、ということを知りました。そのときは「ああ、なるほど、そうだった」と合点したのですが、そのあとにまた違う本を読んでいましたら「職人業」ではなく「職人技」と書いてある本があり、どっちが正しいのかと考え込んだことがあります。
 そこで辞書で調べますと、「業」は動きや仕事のことを表すときに用い、「技」は技術や手並みことを表すときに用いると書いていました。そこで職人の場合はどちらだろう?と考えたところどちらにも当てはまるように思います。
 …ということで、取りあえずはケースバイケースということでちゃんぽんで使用いたします。
 寄り道から本道に戻ります。
 きっと一般の人では手で握っただけでご飯の量を計ることできません。同じことをなんどもくり返し行なっているからこそできる技です。しかし、世の中には器用な人がいるものでほんの数時間練習をしただけで職人と同じことをやってのける人がいます。そうしますと職人技としての価値が下がってしまうことになります。
 今の例は寿司職人のご飯の量だけの話でしたが、料理や調理の世界ではイタリヤ料理やフランス料理などあらゆる部門で同じようなことが起きても不思議ではありません。長年職人としてやってきて習得した技術を職人でない素人がいとも簡単にやってのけることはありえます。
 職人をプロフェッショナル、素人をアマチュアと言い換えることができますが、プロとアマチュアの違いを一言でいうなら仕事にしているかどうかです。そして、仕事にしているかどうはお金という見返りを得られるかどうかです。よく自称会社役員という人がいますが、役員として報酬を得ていないならプロではありません。誰も役員としての経営能力を信用しません。
 世の中にはプロの料理人でなくとも毎日料理を作っている人がいます。主婦です。そして、この人たちの中にはプロ顔負けの料理の腕前の人がいます。プロがアマチュアに負けてはプロの存在価値がないように思えてしまいますが、実際にはあり得ることです。もし、そうしたことが表面化したならその職人として信頼は失墜することは間違いありません。
 例えば、プロ野球のチームがアマチュアのチームに完璧に負けたなら誰もプロ野球を見に行くことはなくなり、ファンから見放されることは目に見えています。野球の職人が素人に負けては存在価値がありません。それほど職人と素人の間には実力差があることが職人が職人としても認められる要件です。
 世の中にはいろいろな職場があります。そしてその職場には先輩という社員がいます。新しく創設された職場でなければ必ず先輩がいます。新人社員は先輩社員から仕事を教わったり、または真似をしたり、昔ながらの仕事場なら盗んだりしながら仕事を身につけていきます。
 実は、最後に書きました先輩から仕事を「盗んで」というのがあやふやで曖昧で新人たちを悩ませています。仕事に限ったことではありませんが、未経験者になにかを教えることほど難しいことはありません。人に教えるには自分自身がきちんと教える内容を理解し完璧に身につけている必要があるからです。
 ところがそれができていない職場が多く存在します。そのようなときに先輩社員たちが口にするのが「仕事は盗め」という台詞です。そしてその台詞を吐くときには暗に職人の世界を想起させるように振舞っています。職人の世界は盗んで仕事は覚えるものだという暗黙の了解です。
 しかし、この考えは間違っています。本当の職人の世界は長い期間の修行のうえに成り立っている世界です。それと同じことを企業の新人に求めるのは無意味です。企業は新人を職人として雇用しているのではありません。ですが、現場では先輩社員たちが職人意識を暗にひらびかさせて「教えること」に手を抜いています。職人意識は教える側の逃げ口上として利用されています。
 そのような職場は得てして新人の離職率が高いのも特徴です。理由は簡単で、先輩の人たちが職人意識を隠れ蓑にして新人にきちんと教えないからです。本当は「教えない」ではなく「教えられないから」かもしれませんが…。
 きちんと理論だってわかりやすく教えるのは本当に手間のかかる面倒なことですが、それができない職場は必ずや崩壊します。なぜなら新人がすぐに辞めてしまいベテランの人たちだけになるからです。そしてそのような職場は必然的に刺激がなく活気のない職場になっていくからです。
 僕は今の警察・検察はそのような状況になっているのではないか、と疑っているのですが、どうでしょう。
 ところで…。
 本文の最後を「どうでしょう」で締めくくりましたが、「どうでしょう」で思い出したのが「水曜、どうでしょう」というテレビ番組です。ご存知の方も多いでしょうが、この番組は北海道で絶大な人気を誇っていたのをきっかけに全国区になった番組です。俳優の大泉洋さんはこの番組から東京に進出してきて大成功をした方です。
 僕はこの番組が成功した大きな要因は職人とは正反対の素人にあると思っています。行き当たりばったりの素人感覚が若い人に受けたのがヒットした理由です。このような現象を見ていますと、世の中では長年苦労を重ね努力を積み重ねた人だけが成功するわけではないことを証明しているように感じているのですが、…どうでしょう。
 じゃ、また。




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