<教育>

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 活動している分野に関わらず、魅力のある人に関心を持ち注目するのが僕の癖ですが、そのひとりに飯野賢治氏がいます。先月、その飯野賢治氏が亡くなりました。まだ42才という若さでしたから本人も無念だったでしょうが、同じくらい悲しんでいる多くのファンがいると思います。僕もそのひとりですが、僕がファンになったのはほかの人たちとは少し理由が違うように思っています。
 世の中には若いときよりも年をとったときのほうが素敵な顔の表情になる人がいますが、飯野氏もそのひとりでした。年を取るごとに「いい男」になっていきました。しかし、僕が感動したのはそんな外見のことではなく生きるポリシーでした。
 飯野さんはゲームクリエーターとして名を成した人ですが、その素晴らしい発想や生き方も独創的でした。飯野さんの場合は「生き方」というよりも「生き様」といったほうが似合っているように思います。
 これまでにも幾度かこのコラムで飯野さんについて書いたような記憶がありますが、僕が一番印象に残っているのは教育に関する考え方でした。飯野さんは自分の生い立ちから「人間は自分に興味のあることは親や先生から強制されなくとも勉強する」と自分の考えを述べていました。それを読んだのは飯野さんが新聞で担当していた若者の相談コーナーでの回答でした。
 僕はその記事を読んでから飯野さんに興味を持ち、その後たまたまブックオフで自伝を見つけ読んだ次第です。それまでにも風貌が少し変わった若い天才クリエーターという評判は耳にしていました。そうした評判に新聞での回答が相まって自伝を読みたくなったわけです。そして、そこに書いてあった型破りな発想と生き方を知りすぐにファンになりました。
 自伝によりますと飯野さんは高校を中退していますが、飯野さんの生き方を見ていますと「学校とは」とか「教育とは」と考え込んでしまいます。教育で本当に大切なことはなんなのか…。
 今、僕が読んでいる本は「街場のメディア論」で有名な大学教授である内田樹氏の「下流志向(副題:学ばない子どもたち・働かない若者たち)」という本です。この本も素晴らしく興味深い本で内田氏の視点に新鮮さを感じました。
 内田氏の本を読んでいて驚いたのですが、今の学校は授業中に子どもたちが勝手に動き回ったり友だちとおしゃべりをしたりと無法地帯のような状況だそうです。僕にはどうもそのあたりの真実味がわかりませんが、本当なのでしょうか。もし、そうであるならば教師による体罰などといった不祥事はおきないようにも思えるのですが…。
 先週のニュースでは教育現場での衝撃的な映像が放映されていました。剣道部の顧問が部員に体罰というにもほど遠い暴力をふるっている映像です。なんと言い訳をしようと弁解ができないような映像でした。映像を見る限り、生徒は顧問の八つ当たりの対象になっているとしか思えないものでした。そうした現実が、教育という現場で起きていることに恐ろしさを感じましたし、そうした顧問の存在を許している学校関係者に憤りを感じました。
 このような現実がありながら、もう片方では先生を先生とも思わない生徒の存在があるようです。たぶん、今の教育現場は両極端に分かれているのでしょう。内田教授の本には「先生を先生とも思わない生徒」について書いてあります。授業中に私語を続ける生徒に注意をすると、「なんで勉強しなければいけないのか」と逆切れして喰ってかかる生徒がいるそうです。
 こうした生徒が増えている理由を、内田教授は「消費主体」という視点で解説しています。つまり、子どもの頃から消費者の立場で育ってきたことが根本原因である、という指摘です。学校という本来学ぶ場で知識的にも人間的にも未熟な子どもが「生徒が教育に対して消費者の立場になること」の危険性を指摘しています。
 内田教授は「教育を受ける立場の生徒が消費者の立場になる」ことを否定しています。そして、その理由も明快でした。
 生徒が先生に「なんで勉強しなければいけないのか」と質問すること自体が間違っている、からです。質問をするということはその答えに納得できないときは勉強を拒否することができる、と選択肢が前提条件です。この「拒否することができる」という発想が生徒の考えの中にあることを批判しています。「拒否する」という行為はまさに消費者の発想です。「受け入れるか拒否するか」を選択できるのはまさに消費者の立場だからこそです。内田教授は主張しています。
「まだ知識も経験も乏しくものごとを判断する能力のない生徒が勉強の是非を選択することは間違っている」
 生徒には「消費者になる資格がない」ということです。内田教授はこのような視点から今の生徒たちの学校での振舞いを批判していますが、誠に的を得た理に適った批判です。しかし、この批判は本来は生徒に向けられるのではなく、保護者である親御さんにこそ向けられるべきものだと僕は思いますが…。
 この話をさらに展開しますと、親の学歴が子どもの考え方に与える影響にまで発展してしまうのですが、あまりに長くなってしまいますので続きは別の機会にしたいと思います。
 実は、僕は「らーめん体験記」の中で内田教授と真っ向から反対する考えと述べています。学校や教師は生徒に対してお客様という視点で接することが教育現場を充実した場にすることができる、という考えです。
 この考えは「一般大衆という消費者を相手にするらーめん店という商売をしていた経験」から生まれた考え方でした。らーめん店という敷居が低いお店にはいろいろなお客様が来店します。今でいうモンスターカスタムやモンスターペアレンツといったモンスターが注目されるずっと以前からモンスターと相対するのが仕事でした。そんな状況の中でも利益を出さなければお店は潰れてしまいます。僕が学校や教師に不満を感じたのはその点です。
 一般の公立学校においては、学校や教師という職業は利益とは無関係に仕事をすることができます。それはらーめん店に限らず敷居の低い商売をしている人たちからしますととても羨ましい仕事環境です。ただモンスターからクレームがこないように、またはクレームがきてもそれに適切に対応するだけで仕事を完了することができるからです。僕はそこに公務員の学校や教師の甘さがあるように思えていました。利益のことを考えずに仕事ができることほど楽なことはありません。
 利益とサービスは相反します。利益を求めすぎますとサービスを低下せざるを得ませんが、そうしますとお客様は離反してしまいます。反対に、サービスを提供しすぎますと利益がなくなってしまいます。商売とはその両方をバランスを取りながら成し遂げることです。一般大衆を対象に仕事をしているスーパーやファミレスなど敷居の低い業種の企業も商売と同じ状況にあります。まさに綱渡りの綱の上を上手に落ちないように歩くことを宿命としています。
 公立の教育現場はこうした苦労がないわけですから、学校や教師がしなければいけないことは徹底的な教育というサービスを提供することのみです。それに徹するなら子どもたちに充実した教育環境を与えることができるはずです。
 ここで内田教授の考えと対立する点が浮き彫りになりますが、僕は生徒にも「勉強を拒否する」選択があってもよいと思っています。その根拠になったのが飯野さんの生き方でした。僕はごく平凡に高校から大学への進学した人間ですが、その僕に比べますと高校中退した飯野さんのほうが本当の意味で勉強に対して真摯に向き合っていたように思いました。飯野さんの自伝を読んでいて心底実感しました。
 ここで冒頭の飯野さんの考えが活きてくるのですが、人間は「自分で興味を持ったことは誰からも言われなくとも勉強する」のです。勉強は自分から進んで取り組むときと嫌々ながら取り組むのでは頭の中に入ってくる量や質が違います。もちろん「進んで」取り組んだほうが高いのです。人間はそういう生き物ですから無理して嫌いな勉強や科目に取り組む必要などありません。
 このときに学校や教師にとっての最大のサービスは生徒たちに勉強に対して「興味を持たせること」です。それが教育現場で働く人たちの真の仕事です。それができない人たちが「生徒を歩きまわさせたり」「なんで勉強しなくちゃいけないのか」と反論されるのではないでしょうか。
 もちろん中にはなんの科目にも勉強にも興味を持たない生徒がいるでしょう。そういう生徒にはただひとつ「周りに迷惑をかけない」というルールさえ守らせればいいだけです。もちろん、このルールの徹底には親御さんの協力も必要です。
 勉強に全く興味を持たない生徒はどうすればよいか、という問題が出てきます。そのような子どもがいても不思議でもなんでもありません。そうした子どもには興味のあることを探す手伝いをすればよいのです。もしかしたらスポーツの分野に能力があるかもしれません。
 昔からスポーツ分野で頂点を極めた人に対して言われる放言があります。「自分の名前の漢字しか書けない」と言われていた横綱もいましたし、「掛け算が3の位までしか言えない」と言われていた一流バッターもいました。ほとんどが笑い話のネタとしてのものだと思いますが、仮に本当だったにしても生きていくだけのお金を稼げるならなんの問題もありません。
 また、どこの分野においても頂点を極めるほどの能力を持ち合わせていなくとも同じです。世の中のほとんどの人は頂点を極めるだけの能力を持っていないのが現実です。僕のようなそんな人でも生きているだけで充分ではないでしょうか。
 飯野さんの訃報に接し、そして内田教授の本を読んで、そんなことを思った先週でした。
 じゃ、また。




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