<フィクションとノンフィクション>

pressココロ上




 テレビに関する記事を読んでいましたら、今テレビ業界では「ひな壇」という番組形式が主流になっていると書いてありました。「ひな壇」とはまさにお雛様よろしくゲストの人たちがひな壇のように並んでいて、そのゲストとMCのやり取りで番組を面白くするもののようでした。
 その記事によりますと、この形式を最初に企画したのは明石やさんまさんだそうです。そういえば、素人の人たちが相手でしたが、恋のから騒ぎはそういう形式ですし、それ以外でもさんまさんの番組はひな壇形式の番組が多いように思います。ただし、こうした形式はMCの力量が番組の面白さに直結しますので、さんまさんならではの形式といえます。しかし、ひな壇形式が広がっているのも確かでさんまさん以外でもいろいろな人がひな壇番組のMCを務めています。
 この記事を読んで、ざっと思い出してみますと、妻が見ているバラエティ番組はほとんどがこのような形式になっています。
 妻が見ている番組といいますと、大分前からクイズ番組でした。ある意味、クイズ番組はひな壇形式に最も適した番組ともいえます。まだ今ほどクイズ番組が華やかなりしになる前でしたから、妻の先見の明には驚かされます。妻は決して博学というわけでも、高学歴でもありませんが、知識に対する興味は強いようです。しかし、ニュース類はあまり好きではありませんので、世間によくいる中年のちょっと太ったおばさんです。あ、もしかすると見る人によっては「ちょっと」ではないかもしれませんが…。
 そんなことはともかく、先日テレビの前に座っている妻のうしろを通りがかりますと、東大卒で有名な高田万由子さんが映っている映像が目に止まりました。普段なら、別にどうということもなく通り過ぎるのですが、そのときの高田さんとほかの人の言葉のやり取りに興味が湧き、つい見入ってしまいました。
 それは、高田さんの子育てに関する悩みについての回答者たちとのやり取りでした。高田さんには女の子と男の子のお子さんがいるそうで、番組での相談は男の子の育て方に関しての悩みでした。
 僕は初めて見る番組でしたが、ご存知の方は多いのかもしれません。回答者の中には本を出版している心理カウンセラーの人もおり、その本の宣伝文を新聞の広告欄で読んだことがありますが、「テレビで活躍している」と書かれていました。このように書かれるということは、そのテレビ番組も人気があることの証です。
 それはともかく、高田さんの表情から、高田さんが本気で相談していることが感じられました。僕が興味が湧いたのは、実は、その点でした。「本気」なところです。テレビという公の場で本気で相談することへの違和感です。
 もし高田さんが芸能生活も短く、年齢も若いなら高田さんの「本気」も不思議に思わなかったと思います。ですが、年齢も重ねまた芸能生活も長く、いろいろな経験をしているはずの高田さんがテレビで悩みを「本気」で相談している姿が不思議に思えました。
 以前、このコラムや本コーナーで「積木くずし」について紹介したことがあります。「積木くずし」とは、ドラマなどで脇役として活躍していた男優が自らの子育てについて赤裸々に綴った本です。その内容があまりに衝撃的だったために反響を呼び、ベストセラーになり、ドラマ化もされ映画化もされ、社会現象にまでなりました。
 しかし、社会現象になるということは、男優のプライベートを晒すことでもありました。プライベートには当然、家族も含まれます。そして、プライベートを晒すことの弊害が娘さんにおよんだ事実も公になりました。僕には、娘さんがプライベートを晒した父親の被害者のように感じられていました。
 僕は、高田さんの「本気」から、同じような不安が浮かんできました。息子さんについて相談すればするほど、息子さんが傷つくことを高田さんは想像しなかったのでしょうか。一歩間違えますと、息子さんの人生を台無しにしてしまいます。
 その番組は、芸能人が人生相談をする番組のようでしたが、「相談する」ということに関して、僕には印象に残っている言葉があります。サイトを開設した初期の頃に「アビリトの部屋」で紹介しましたが、
「人は、相談する相手を決める段階で、既に答えを決めている」
 この文章を読んだとき「なるほど!」と合点しました。高田さんの場合でも、いろいろな人が回答をしていましたが、どの回答に対しても高田さんは、今ひとつ受け入れることができないでいるようでした。しかし、最後に回答した心屋仁之助さんの回答には至極満足したようで初めて笑顔を見せました。
「やっぱり、私の悩みは解決できないのかなぁって、思っていたんですけど、やっと最後に解決できました」
 高田さんが心屋氏の回答のあとに語った言葉です。心屋氏の回答に満足した気持ちが伝わってきます。高田さんは、実は、最初から答えをわかっていたのです。ただ、背中を押してくれる回答を待っていたのです。
 だからこそ、高田さんは心屋氏との言葉のやり取りの中で、それまでの回答者のときには話さなかった心情を吐露しました。
「実は、息子を嫌いになりかけたことがあるんです…」
 この言葉を聞いたとき、僕は小さな息子さんの気持ちを想像しました。そして「積木くずし」を連想した次第です。
 森達也さんというドキュメンタリー映画監督がいます。森氏はオウム事件が起きた際にオウム真理教に対する批判一辺倒のマスコミに疑問を感じ、オウム真理教の内側に入り込み、その生活を描いた「A」という作品を発表したことで世間の注目を集めました。森氏はオウム真理教の内側からの視点で社会を描こうとしていました。もちろん森氏に対する批判は多くありましたが、海外では評価を受けました。
 その森氏はドキュメンタリーというものの限界についても考察しています。ドキュメンタリーとは記録映画という意味ですが、記録する対象をどれだけ客観的な視点で捉えることができるかの難しさについて発信しています。
 実は、この難問は撮る側の問題だけではありません。対象となる人や事象がマイクやカメラを向けられたときに、どれだけ自然でいられるかです。つまり、どれだけ「素」のままでいられるか、または「地」を出せるか、という問題です。
 普通の人は、公から見られることを前提にしたとき「素」ではいられませんし、「地」を出すこともできません。どうしても構えてしまいます。今風の言い方でするなら、パフォーマンスをしてしまいます。
 しかし、よくよく考えてみますと、人は誰しも「素」の自分とパフォーマンスをしている自分を使い分けています。ある意味、それは人が生きるうえでの術でもあります。それができない人は社会的対応が不得意な人と評価されるのが今の世の中です。
 それと対照的なのが芸能人であり政治家です。この2つの職業についている人は、どれだけ素とパフォーマンスを上手に使い分けるかが成功の可否を決めます。
 その意味でいいますと、今回の橋本氏の言動は使い分けに失敗しているように見えるのは僕だけでしょうか…。
 駅まで自転車をこぎながら考えました。
 社会で生きていくうえでは、素でいると傷つき、パフォーマンスをしていると疲れ、使い分けるのも困難だ。とかくこの世は生きにくい…。
 ところで…。
 素とパフォーマンスを使い分けていますと、いつの間にやらどこまでが素で、どこからがパフォーマンスか自分でもわからなくなることがあります。僕は思います。
「どんな人でも事象でも、カメラを向けられた瞬間にフィクションになる」
 こうして考えますと、人の人生には素とパフォーマンスの境目がなくなっていくように思います。結局、2つに差異はないのかもしれません。
 かのキアートサ・マーヤールマは言っています。
「人は死ぬ瞬間に思うだろう。人生はすべてフィクションだった、と」。
 じゃ、また。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする