<うしろめたさ>

pressココロ上




 いよいよ今回が今年の最後となりました。先週も触れましたが、僕にとって今年は健康上で激動の1年でした。まさか自分が心臓の手術をするとは今年の正月にはひとかけらも思っていませんでした。
 僕が体験したカテーテルアブレーションという手術は足の根元から管を通し、さらにその中に細い針金を送り込んで心臓の余分な組織を焼き切る手術でした。こうした作業というか行為というか、そのようなことを医師の方々はモニターを見ながら行うわけです。
 僕には実感は掴めませんが、心臓を扱うわけですからそのプレッシャーたるや素人からは計り知れない大きさだと思います。それを跳ね除けて手術をするのですから尊敬に値する仕事です。ですから、医師の方々には頭が下がる思いでいっぱいです。
 このように医師の方々個人に対しては感謝の気持ちでいっぱいですが、カテーテルアブレーションを実施するまでの病院の対応全般については問題点もあるように感じました。そうした問題が起きる原因は「患者からの視点が欠けているから」の一言に尽きます。僕は流通業や飲食業の経験が長いですので、そうした業界から比べますとまだまだ「上から目線」の感覚が抜け切れていないように感じます。
 そんな僕が今年一番心に残った言葉は五体不満足で有名になった乙武洋匡さんのお父さんの言葉です。なにで読んだかは忘れましたが、乙武さんが二十歳の頃にお父さんから告白されたそうです。
「実は、今までずっとお前にびびっていた。いつか『なぜ、こんな体に生んだんだ』ってと責められる日が来るんじゃないかと、ずっと思っていた」
 これを読んだとき、僕はお父さんの強さと優しさのうしろにあるものを感じました。それは「うしろめたさ」です。お父さんは乙武さんに対してずっと「申し訳ない」という気持ちを持っていたのではないでしょうか。お父さんのこの告白からはそんな思いが伝わってきます。
 うしろめたさを持っている人は傲慢になることはありません。そして、うしろめたさの土台になっているのは責任感です。責任を感じているからこそうしろめたさを感じるのです。
 安倍首相が靖国参拝をしたことが内外に波紋を広げています。僕は以前、コラムで安倍首相の健闘ぶりについて好意的に書きました。そのときにはブレーンの素晴らしさにも言及したのですが、今回に限っては勇み足というか、判断を過ったように思います。就任以来、ほぼ完璧に近い政権運営をしていただけに残念です。
 1979年の日本シリーズ第7戦、広島東洋カープの江夏投手は9回無死満塁から21球で近鉄の攻撃を阻んだのですが、たったの1球でもミスがあったならあの日本一はありませんでした。
 もしかすると、安倍首相は特定秘密保護法案の採決から今回の靖国参拝までの一連の動きが命取りになるかもしれません。選挙は当分の間ありませんが、政治の世界は「一寸先は闇」であるのは猪瀬元都知事が証明しています。年が明けたあとにどれだけ修正できるかが勝負です。
 安倍首相が状況を見誤り、内外の反応を読み間違えたのはうしろめたさを忘れてしまったからです。先の戦争において東南アジアを植民地としたことや6年前の政権を投げ出したときなどのうしろめたさです。就任1年が過ぎ、周りを取り囲むブレーンの人たちも心に隙ができたのかもしれません。
 沖縄県の仲井真知事が辺野古の埋め立てを承認する決定をしました。この決定も県内外に波紋を広げていますが、この決定以外に基地問題を前に進める方法はないように思います。仲井真知事自身も批判されることはわかりすぎるくらいわかっているはずです。誰かが判断をしなければなにも進みませんし、始まりません。その意味で承認の是非は別にして、仲井真知事に対して僕は尊敬の念を持っています。
 思い返せば民主党が政権につき鳩山氏が首相に就任し、米軍基地を「最低でも県外へ」と打ち出したとき一番困ったのは仲井真知事ではないでしょうか。県外移設の非現実性を誰よりもわかっていたのは仲井真知事だからです。ですから、仲井真知事は今回の政府の対応と今のタイミングをずっと待っていたように思います。
 沖縄はどういう結論になろうが、必ず対立が生まれる宿命を持っています。それをなすりつけているのは僕たち本土に住んでいる人たちです。本土の人たちが基地を受け入れるなら沖縄の宿命も少しは減ります。
 その意味で僕たち本土の人たちは、本来ならうしろめたさを背負いながら生活しなければいけない立場にいます。クリスマスが過ぎ、年末に向かって慌ただしい一日を過ごしていますが、うしろめたさを忘れずに一年を終えたいと思います。
 今年も一年お読みくださいましてありがとうございました。
 じゃ、また来年。




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