テレビなどでは3月11日を迎えるにあたり、東日本大震災の特集を組む番組が多く見受けられます。「風化させてはいけない」という意図の基で番組が制作されているようですが、人間は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のが性ですのでとても大切な姿勢です。
先日見た番組では、今から100年くらい前に起きた大震災によって被った経験に基づいた注意書きが石碑の文章に刻まれていることを伝えていました。その注意書きには「地震のあとに津波が来るから非難した場所から2時間は動いていけない」とか「高いところに逃げろ」など今でも有用な文言が書かれていました。そうした教訓が生かされていなかったのが残念ですが、そうした石碑に気がついたのも地震や津波の被害に遭ったあとというのが人間の本性を示しています。
以前なにかで読んだ本に「人間は忘れるという能力があるから、生きていられる」という内容のことが書いてありました。人間は生きていますと、辛いことや悲しいことをたくさん経験しますから、それを全部覚えていては苦しくて生きていけません。ですから、「忘れる」という能力はとても大切なことだ、と書いてありました。
しかし、被災のようすを後世の人たちに少しでも参考にしてもらうにはやはり、「忘れないこと」は大切です。そうすることで同じ被害に遭わなくて済むからです。そのために「風化させないこと」「記憶に残るように対処すること」は必要です。
なにかを記念するために記念日という言葉がありますが、記念日という言葉の響きからはプラスのイメージを感じます。先週は、国会でも3月11日を記念日に制定することについて論議があったようですが、被災を記念日とするのにはしっくりこないものも感じます。
そこで、記念日ではなく記憶日という言葉を作ってはいかがでしょう。記念日が喜怒哀楽の「喜」もしくはそれに近いものを表すのに対して、記憶日とは「哀」をイメージする言葉です。やはり、悲しい出来事を記念日とするのには抵抗感があります。
さて、震災の特集番組を見ていて一番に感じるのは、やはり復興が進んでいない現在の状況です。いろいろな要因があるのは想像できますが、それでもあまりに遅すぎる復興状態であるのは論を待たないところです。
これまでに僕が一番憤慨したのは、復興予算の使い道に関する報道でした。覚えている人も多いでしょうが、一昨年の報道でした。復興のための予算が被災地とはなんの関係もない事業に使われていました。例えば、東北とは遠く離れた沖縄教育振興や独立行政法人国際交流基金運営費や国土交通省の官庁営繕費などです。中には、自治体庁舎の耐震化や緊急の全国防災等事業なども含まれていたそうです。
まさに「何をか言わんや」です。この言葉はこのためにあるのではないか、いえるほどあまりに悲しく情けない実態でした。こうしたことをしたのは、小さな子供ではありません。ただの大人でもありません。世間的には優秀といわれる大学を出た立派な大人の所業です。いったい、どの面下げてこのようなことを考えたのでしょう。
ちょっと辛らつな表現をしてしまいましたが、それほど僕はこの報道に怒りを感じました。もちろんこの怒りは予算編成をした官僚だけではなく、それを受け入れた側に対しても感じています。「もらえるものはなんでももらう」という下卑な気持ちが丸見えで悲しい気持ちになります。
先週、バイクの下敷きになっている僕を助けてくれたタクシー運転手さんのお話を書きました。運転手さんの行動は復興予算に群がった人たちとは対照的な対応です。僕を助けてもなんの得も利益もありません。それでもわざわざタクシーを停めてまで僕を助けてくれたのです。
こういう経験をしますと、僕はいわゆる社会的地位が高い立場にいて偉そうに振舞っている人よりも、現場で一生懸命働いている人たちのほうに好感を持ってしまいます。僕は、社会的に高い立場にいる人たちに対して「ずる賢いイメージ」を感じてしまいます。
このコラムを読んでくださっているあなたが、そのような立場の人でないことを願いつつ…、
じゃ、また。