<派手な苦境、地味な苦境>

pressココロ上




 先週は「記憶日」と題して震災に関することをテーマにしてコラムを書きました。しかし、その震災に対してちょっと違う感じも持っています。それは、公平という観点からの「感じ」です。
 ちょうど震災日にあたる11日のラジオを聴いていましたら、プロデューサーの肩書きを持つ残間里江子さんという方が被災者および被災地に対する気持ちを語っていました。残間さんは「あの永遠のアイドル」山口百恵さんの自伝をプロデュースしたことで有名になった方です。このように紹介しましても、今の若い人は山口百恵さんを知っている人が少ないかもしれませんが…。
 それはともかく、その内容は「東京に住んでいると被災に対する感覚が段々と鈍くなってくる」というものでした。被災地ではまだ復興は進んでいないにも関わらず、少しずつ被災地以外の人たちの関心が被災地から遠のいていくことを心配していました。
 残間さんは放送日の前日、関西に仕事で行っていたらしいのですが、その際に運転手さんに東日本大震災について話題を向けても、あまり関心を示さなかったことが気になったようでした。
 運転手さんが関心を示さなかった理由として残間さんは次のようなことを上げていました。
「関西は、95年に関西淡路大震災を経験しているので、あらためて驚くことでもない…」、また「東北から遠く離れた地にいることによる地理的要因」です。どちらもそれなりに説得力がある理由です。
 関西淡路大震災も原発事故こそありませんでしたが、東日本大震災に負けず劣らぬほどの被害の大きさでした。僕などは、高速道路が横倒しになっていた衝撃的な映像が今でも頭に焼き付いています。関西の人たちにはそうした経験がありますので、大げさに反応することができないのかもしれません。
 また、関西は東京など関東圏よりも東北地方から離れていますから、被災の実感が湧かないこともあるかもしれません。例えば、ニュースでどんなに悲惨な事件や事故の模様が報じられようとも、それが海外での出来事であるなら僕たち日本人は身近に感じることはありません。知り合いがいれば別ですが、そうでないなら親身になって感傷的になれるものでもありません。戦時状態の中で小さな子供が生死を彷徨っているような映像を見ても、「かわいそうに…」と思うのが精一杯でそれ以上の行動を起こそうとはしません。そこまで感情移入できないのが人間という生き物です。
 人間とは元来そのような生き物ですが、東日本大震災は日本での出来事です。そうであるだけに残間さんは運転手さんの反応に落胆をしたそうです。無関心とはいいませんが、残間さんが感じているほどの「被災地への思い」が強くないことに寂しさを感じたようでした。なにかのキャッチフレーズにありました「忘れないを忘れない」という言葉を忘れないでほしいと話していました。
 今年で震災から3年が過ぎましたが、報道の映像を見る限り被災地の復興はまだ道半ばです。そうした実態を踏まえて、今年のマスコミは国民の関心が薄れていくことを食い止めようとしている意図が感じられました。先に残間さんの話も紹介しましたが、同じような発言が多くの芸能人や著名人、マスコミ関係者の口から語られていたように思います。
 確かにまだ復興は緒についたばかりの状態ですので、目処がつくまで国民やマスコミ、政治の関心が継続されることは大切です。ですが、そうした発言を耳にすればするほど、僕は違う感覚が沸き起こってきました。
 僕の頭の中に浮かんできたのは、沖縄の米軍基地問題に関する決起集会の映像でした。
 言うまでもなく、沖縄の米軍基地の問題は日本全体の米軍基地の問題です。国内にある米軍基地の75%が沖縄に集中していることが理由です。沖縄の人たちの言葉を借りるなら、沖縄は米軍基地を日本国全体から押し付けられているのです。いつからかといいますと、1972年に日本に復帰してからずっと40年以上です。3年どころの話ではありません。その間、ずっと犠牲を強いられてきました。
 そして、悲しいことにその間マスコミや著名人から「沖縄に関心を持ちましょう」などという大きな声を聞くことはありませんでした。一部の人たちはそうした活動や発言をしていましたが、あくまで一部のことに過ぎません。
 いったいこの差はどこからくるのでしょう。東北地方に住んでいた人たちは地震によって生活の基盤を失いました。同じように、沖縄の人たちも米軍基地によって危険と隣り合わせの生活環境に我慢しながらの生活様態のまま現在に至っています。こうした状況からしますと、本来、国民は両者に対して同じ対応をしなければいけないはずです。
 以前、自サイトの本コーナーで「戦争広告代理店」という本を紹介したことがあります。この本はユーゴスラビアが分裂したときの紛争について書かれた本ですが、内容は「いかにして自分たち民族の正当性を訴えるか」の重要性についてでした。
 つまり国際社会に支援してもらうには自分たちに正義があることを「いかにして主張するか、認めてもらうか」が重要な要因であるということです。そして、そのためには優れた広告代理店と契約することの大切さを指摘していました。少し振り返りますと、同じような構図が東京にオリンピックを招致する際にも言われていました。
 僕はかねがねものごとの評価を得る方法として、広告や宣伝やマーケティングが大きな影響を与えることに納得できないものを感じていました。しかし、残念なことにそれが現実です。少し歴史を遡るならナチスのゲッペルス宣伝相が果たした役割は大きなものでしたし、企業が成功をするためには広告やマーケッティングの優劣が結果を左右したのも事実です。僕はこのような現実に疑問を感じています。
 大きな被災を受けた東北地方の人たちにこれからも支援を続けることに異論はありませんが、自分の力ではどうしようもない苦境に追いやられている人はほかにもいます。そうしたときに、多くの人から注目される苦境と注目されない苦境があることに納得できないものを感じます。
 そして、その差が広告や宣伝、またはロビー活動やマスコミの取り上げ方、そしてマーケッティングによるものであるなら、それはあってはならないことです。苦境にいる人たちに違いはありません。苦境に「派手」も「地味」もないはずです。苦境に陥っている人たちに公平に手が差し伸べられる社会システムになることを願っています。
 じゃ、また。




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