<終戦記念日>

pressココロ上




 今年も平和について考える季節になりました。ちょっと堅物な性格を持っている僕はこの時期になりますとどうしても戦争について考えてしまいます。僕のコラムをずっと読み続けている人にはしつこいくらいに感じるかもしれませんが、僕がこの時期になって必ず思い出すのは、お笑いタレントの明石家さんまさんが主演をしたドラマです。
 このドラマの最後でさんまさんが叫んだ言葉が忘れられません。
「わいは、人を殺すために生まれてきたんやないでぇ」
 戦争はいけないとは誰もが思っているはずです。ですが、今このときにもイラクやシリアやガザで戦争が行われています。今週のアビリトでは映画監督・大林宣彦氏の
「正義をかたくなに信じ過ぎると、対立する相手を悪と規定しなければならなくなる」
 という言葉を紹介していますが、正義を守るために戦争が起きることもあります。僕は、ずっとこの事実が悩みの種になっています。
 憲法9条を守ることを訴えている知識人の方々は「武力では平和を作ることはできない」と主張します。確かに、武力は新たな武力を呼び込みますのでこれは真実だと思います。
 対して、パワーオブバランスを訴える人たちは「武力があるからこそ平和を維持することができる」と主張します。安倍首相の言葉を借りるなら積極的平和主義です。
 僕は積極的平和主義には懐疑的ですが、しかし、他国からの攻撃に対しては武力で守るより方法がないとも考えています。僕のような考え方に対して、武力を否定する人たちは外交や国際貢献などで「どこからも攻められない国」になることを主張しています。
 この主張は理想的なあり方とは思いますが、でも、そんなことってあり得るのかなぁ…。
 オバマ大統領がイラクへの空爆を決断しました。3年前に撤退をしたイラクです。オバマ大統領は「武力による平和」を否定する考え方の持ち主です。ノーベル平和賞まで受賞しています。そのオバマ大統領でさえ、今回イラク空爆を決断してしまいました。やはり武力なしでは平和を成し遂げることは無理なようです。
 僕の悩みがさらに深まりました。
 どうすれば平和な社会になるかを考えていきますと、堂々巡りで答えが出ません。これまでの多くの人たちが考えに考えても答えが出ていないのですから簡単に答えが見つかるはずはありません。そこで、ひとまずその難問は横に置いておいて個人が平穏に生活できる社会について考えてみたいと思います。
 これは「平和な社会を作る」ことを考えるよりは難しくはありません。個人の自由を守ることを考えればよいのです。自由とは「誰からも縛られない、強制されない」ことです。働くことさえ自分の意思で決めることができる社会です。そういう社会になっていることが大切です。
 反対にいうなら、個人の自由を脅かすような社会変化が起こりそうなときは大きな声を出して異議を唱え、行動に移すことが大切です。そのためには情報を得る自由や自分の意見を発信する自由はなんとしても守られなければいけません。その点だけには注意が必要です。
 その意味において現在のような通信手段の発達は大きな意味を持っています。2010年に起きたアラブの春はツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアが果たした役割が大きいといわれています。ですから、今後もしソーシャルメディアに対する規制が行われたときは行動を起こすときです。
 昨年、12月に特別保護法案が成立しましたが、そのときメディアでは大きく取り上げていました。しかし、一般の人たち特に若い人たちの間では盛り上がりが今ひとつだったように思います。
 個人の自由が損なわれるときは「声を上げ行動しよう」と書きましたが、権力者は行動を起こすきっかけを与えないように画策するのが常です。オブラートに包んで反発心や抵抗感を与えないように少しずつ規制という網をかけてきます。ですから、個人が注意をしなければいけないのは自由の規制に対して鈍感にならないことです。「気がついたときには遅かった」では遅いのです。
 テレビの街頭インタビューなどを見ていますと、政治に無関心な若者が多く見受けられます。以前書きましたが、政治にこだわりすぎるのも危険ですが、無関心すぎるのも危険です。適度に注意を払って個人の自由が守られる世の中が続くように政治に関心をもっていることはとても大切です。
 僕が今、なにを心配しているか…。それは徴兵制なのですね。
 若い皆さん、そんな世の中にならないように目を凝らして永田町と霞ヶ関を見ている必要があります。
 …永田町と霞ヶ関という意味がわかるかなぁ。
 じゃ、また。




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