<先延ばし>

pressココロ上




 誰でも生きていますと答えが「出ない」または「決められない」という難問に出くわすことがあります。僕たちはこうした難問を「悩み」といったりしますが、反対に考えるな簡単に答えが出ないからこそ悩みです。
 悩みに出くわしたときに悩むのは答えを「出す」または「決める」時期です。すぐに答えを出すほうがよいのか、それとも先延ばしにしたほうがよいのか、迷います。
 普通の感覚では「先延ばし」はずるいというか卑怯というか、どちらにしても責任逃れをしている印象があります。このように「先延ばし」はあまりよい印象がありませんが、だからといって「先延ばし」が悪い結果を出すとは限らないのも事実です。性急に答えを出さなかったことでよい結果を招くこともあります。人生は不思議です。
 外国人が日本に来て驚くことに電車の時刻表の正確さがあるそうです。日本の電車のダイヤは世界に自慢できるほど優れているそうですが、それを実現させているのは日本人の生真面目な性質によるものが大きいように思います。世界の国々の多くは電車が時刻表どおりにくるほうが珍しいそうですから、日本人の生真面目さは傑出しているようです。
 そんな日本人ですので、悩みに接したときに答えは「すぐに出す」ほうを好むような気がします。しかし、先に書きましたようにそれが賢明な選択かどうかはわかりません。
 僕が「先延ばし」について最初に意識したのはラーメン屋時代での顧問税理士さんとの会話でした。僕はどちらかといいますと、せっかちですので答えをすぐに出したがる性格です。そんな僕が「へぇ、そういう対処の仕方もあるんだ」と感じ入った会話でした。
 税理士さんは顧問ですので毎月一度はお店を訪問していました。そのときに会計に関するやりとりを終えたあとに世間話をしました。そのときに税理士さんが自動車事故を起こした話をしました。
 事故は車同士の衝突で双方ともにケガなかったのですが、過失割合について折り合いがつかず、交渉が進展していなかったそうです。それでどうしたかといいますと、「ほっぽらかしている」とおっしゃったのでした。せっかちで四角四面な性格の僕はその対応に心の中で驚きました。なにしろ「ほっぽらかして」1年以上経っているというのですから。
 その後がどうなったのかはわかりませんが、無理に焦って結論を導かない対処法の存在を知りました。大げさにいうなら、目から鱗が落ちた瞬間でした。「へぇー」と。
 僕はその後、保険の仕事に携わるようになったのですが、あのときの税理士さんの対応は正しい選択肢のひとつでした。その税理士さんがその後どうなったのかはわかりませんが、「ほっぽらかして」いられるのも生きていくうえでのひとつの能力のように思った次第です。
 小渕優子元経産大臣に対して検察特捜部が捜査を始めましたが、番頭である秘書はそれまでの慣習を改めることを先延ばしにしていたことが悪い結果になっています。言葉は悪いですが、小渕氏は父上の周りの人たちに担がれて政治家になったのですから、操り人形の側面があったのも否めないと思います。そして、そうした関係を改めることができず、引きずっていたのが今回の事件の根本にあります。これは先延ばしの悪い例です。
 このようにみていきますと、「先延ばし」自体はいいとも悪いとも言い切れないことがわかります。では、判断の基準をどこにおけばいいかといいますと、それはその時点で困っている人や不利益を被っている人がいるかどうかで判断するのがベストです。
 先週、アスベスト訴訟の原告に対して国が謝罪をしましたが、これなどはもっと早く結論を出すべきでした。先延ばしをしたことで被害者の苦痛も伸びたからです。今回のアスベストに限らず、チッソや水俣など今現在に苦痛を感じている人がいるときは先延ばしなどせずに早く結論を出すように努力するのが正しい対処の仕方です。
 …というわけで、先週は先延ばしの是非について考えることが多かった僕でした。
 ところで…。
 先週は政治資金の問題で釈明する政治家の会見が続きましたが、与野党ともにこの問題を抱えているのは由々しきことです。そんな中、安倍首相が民主党の枝野幹事長の収支報告書の記載ミスに際して「これで撃ち方やめになればいい」とした発言がニュースで報道されました。
 この報道の真偽についてはその後の追求報道がなされませんでしたので確定していません。ですが、僕がこのニュースを見て真っ先に思ったのはオフレコという言葉です。
 今の時代ではオフレコを知らない人は少ないでしょうが、政治家と記者の関係においてオフレコは重要な接着剤です。記者の世界ではオフレコを聞ける関係を築いて初めて一人前になれるという感覚でしょうが、オフレコを聞いて政治家の心の中を忖度するのが記者の能力のひとつのはずです。
 そしてオフレコを発する政治家と記者の間にはオフレコは「表に出さない」つまり「記事にしない」という暗黙の了解または不文律があったはずです。「はず」ですとしたのは、ここ数年、この不文律が崩れているように感じるからです。
 こうした現象は政治家と記者との関係が変化していることを覗わせますが、この是非もまだ確定しているとはいえません。かつては政治家の秘書と同じような役目を果たしていた名物記者が各新聞社にいましたが、近年そういった話はあまり聞かれません。
 オフレコも含めて先延ばしにする記事の選択はとても難しいものがあるはずですが、マスコミの方々はその選択をすることが仕事の要ではないでしょうか。
 じゃ、また。




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