<公平>

pressココロ上




 僕は現在、早朝に起きて出かける仕事をしているのですが、その時間に見かける親子がいます。まだ出勤の人たちもそれほどいない時間ですが、その時間に親子がなにをしているかと、それは練習です。なんの練習かといいますと、野球です。巨人の星さながらの特訓です。
 しかし、あの巨人の星とは異なり星一徹のようなスパルタ方式ではありません。子供の年齢は小学校2年生くらいでしょうか。父親は見た目は30代半ばから後半といった感じです。父親の風貌も星一徹のような頑固で厳しい雰囲気は全くなく、黒縁の眼鏡をかけていて痩せていてどちらかといいますとひ弱といった表現が当てはまる感じさえします。
 教え方もその風貌に似合っていて言葉を荒げたり、ましてや手を上げたりすることは決してなく「説明して言い含める」といった感じで指導しています。僕が通りかかるときはいつもバットの素振りをしています。そして、風変わりな練習方法ですが、バドミントンの羽をボール代わりに投げてバットをその羽に命中させる練習をしています。
 今の時代は素振りの練習をするのも大変です。広場がないからですが、その親子も道路で練習をしています。道路といいましても住宅街の中ですのでほとんど車が通ることはありませんし、幅も車がすれ違うことができるほどの広さがあります。ですが、あくまで道路です。バットでボールを打つ練習はできません。ですから、ボールの代わりにバドミントンの羽を使っているのです。
 このバドミントン練習法はとても理に適った方法です。どんなにバットの芯に当てようとも遠くへ飛ぶことがないからです。狭い場所でバッティング練習にするには最適な方法です。少年の振りが少しずつシャープになっていくのがわかります。
 この親子の練習を見かけるようになったのは夏に入る前くらいです。最初の頃はランニングをしている光景でした。そして、当初は子供はふたりでした。兄弟で朝錬をしていたのです。今も練習を続けているのは弟君のほうですが、最初は兄も一緒に練習をしていました。体格から察するに2才くらい年長の兄でした。
 兄も練習をしていた頃は、兄が弟を励ましているような振る舞いをしていたように思います。ランニングなどでは特にそのような雰囲気がふたりの間にありました。バッティング練習においても兄が最初にやってそれから弟が続くといった感じです。通りすがりの僕からしますと、仲の良い兄弟とその父親のように見えました。
 それがいつの間にか弟だけになっていました…。
 先週、Yafooのトピックを見ていましたら若貴兄弟の若花田さんに関するニュースが報じられていました。若花田さんは今は相撲界から離れていますのでただの花田さんですが、トピックではその花田さんが弟である貴乃花親方を批判する言葉を発していることを伝えていました。
 僕が知っている範囲内で兄弟ふたりの関係を説明するなら、弟思いの兄が弟の人生を暖かく見守っている関係です。なぜなら、部屋を継ぐことにおいて兄である花田さんは争うことなく貴乃花親方に譲っているからです。もし花田さんが部屋を継承することを渇望していたなら今頃まだ骨肉の争いを繰り広げていたかもしれません。あっさりと相撲界から身を引いた姿勢に弟思いの優しい潔い印象を持っていました。
 一時期貴乃花親方が占い師に操られているという報道が週刊誌を賑わせたことがありましたが、そのときでさえも花田さんは弟を気遣っての反応のように思っていました。
 そのように思っていた中での今回の報道でした。マスコミは有名人のゴシップを大げさにセンセーショナルに伝えるのが使命のようなところがありますので、今回の件も割り引いて捉えたほうがよいとは思いますが、貴乃花親方に対して「…あんな奴に」という言い方は衝撃的でした。
 以前から「仲がいい」とはいえないとは思っていましたが、ここまで感情が悪化していたのは驚きでした。
 血を分けた兄弟がここまで仲たがいするのは最終的には親に責任があると僕は思っています。簡単に結論をいってしまうなら、「育てるときに兄弟に対して公平でなかった」からです。その不公平感が澱として積み重なり、そしてマグマのようなエネルギーとなり大人になったときに爆発するのです。
 人は誰しも公平に扱われたいと思っています。現在世界で起きている民族紛争も元をたどれば公平でなかった歴史が原因ともいえます。しかし、公平ほど「難しいものはない」のも事実です。ある行為が片方には公平でももう片方には公平ではないこともあります。それほど公平を保つことは難しいものがあります。
 昔は子供がたくさんいましたので、仮に公平でなくともその不公平による損失が分散されていました。ですから、結果的に不満を強く感じなくて済んでいたのです。また、昔は生まれたときから親からマインドコントロールを受けることが普通で、また情報が限られていました。ですから、公平でないことに疑問を感じることがありませんでした。不公平が普通であるなら不満を感じることもありません。
 こんなことを書いていましたら、アラブの春を思い出してしまいました。アラブの春も通信機器の発達による情報の自由化がきっかけといわれています。
 話を戻します。現在は昔とは状況が違います。子供の人数は少ないですし、長男とそれ以外の兄弟姉妹の関係も昔ほど強い別格感はなくなっています。「長男が一番」などという感覚はなくなっています。しかも時代は「人間は誰でも平等に扱われるのが当然」という世の中です。
 このような世の中で我慢を強いられていた子供が不公平感を澱のように溜めていても不思議ではありません。だからこそ親は子供を育てることに慎重になることが求められます。
 冒頭に紹介しました親子は弟君だけが朝練を続けています。僕はお兄ちゃんの心が傷ついていないか心配しています。弟だけが父親と朝練を続けているのですから疎外感を感じていても当然です。父親がそのことに気づいていればいいのですが…。
 朝練の親子を見ていてそんなことを思っている僕です。
 ところで…。
 ジュースのペットボトルがあるとき。それを兄弟が双方とも納得できて平等にわける方法はひとつしかありません。昔からいわれている例ですが、
「片方が2つのコップにわけて、もう片方が先に選ぶ」のです。こうするとどちらも納得すること間違いありません。
 この行為のとき重要な役割は「選ぶ」ほうです。なぜなら、「分けた」行為を評価することになるからです。
 若い皆さん、来月は投票で選びましょう。
 じゃ、また。




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