<ペンと剣>

pressココロ上




 年が明けてからの一番のニュースといいますと、やはりフランスで起きたテロ事件です。いかなる理由があろうとも暴力によって自分たちの主張を押し通そうとする行為は許されるものではありません。ですから、テロに対する抗議として370万人がデモ行進をし、また主要国の首脳が参加したのも表現の自由を守ることを示す意味で大きな意義がありました。
 もし暴力を認めてしまうならそれは人間社会ではなくなってしまいます。弱肉強食という自然の世界と同じになってしまい、人間が動物になってしまうことになります。ですから、暴力によらずに社会の秩序を作ることが人間であることの証明になるはずです。
 このような認識が世界で共有していましたのでテロ事件が起きた当初、世界中が表現の自由を支持していました。しかし、デモ行進が報道されているときに読売新聞では少し違った意見というか視点を書いているフランスの知識人がいました。名前は覚えていませんが、氏は「今、こういう意見をフランスでいうなら批判の嵐に見舞われる」と断ったうえで表現の自由に対して異議を唱えていました。氏はそのインタビューが日本の報道機関だったことで答えたようです。
 そして、先週の後半あたりから流れが少し変わってきたような感じがあります。それを表しているひとつが、ローマ法王が「表現の自由は大切だが、他宗教を挑発すべきではない」という考えを表明していることです。さらに、つけくわえるならそうした考えをマスコミが報道していることです。
 また、襲撃を受けた週刊誌が事件後に初めて発行した際にその表紙を記載するかどうかで「メディアによって対応がわかれている」ことを報道していました。こうした記事は単に「表現の自由」について報道するのではなく、それ以前の段階である「表現の自由の是非」について伝えていることになります。
 こうした一連の流れを見ていますと、「表現の自由」について考えさせられます。暴力で訴えることを認めないことについては誰も異論がないでしょうが、表現の自由は少しばかり違うような気がしてきました。
 今回テロが起きたきっかけは風刺漫画の内容にあります。僕はイスラム教に詳しくありませんので確かなことはわかりませんが、報道によりますとムハンマドの画を描いたことが侮蔑にあたるそうです。もし、そうであるなら表現の自由を闇雲に主張することも考える必要があるかもしれません。
 相手が嫌がることをやるのはイジメと同じです。自らの表現が相手を傷つけるのであればやはりそれはイジメです。その意味で表現の自由のみを後ろ盾にしてイスラムの人たちを非難するのは正しくないように思います。
 しかし、フランスという国家の歴史を考えるとき、そうともいえない部分もあります。今回の事件で知ったことですが、フランスという国家は表現の自由を獲得するまでに多大な犠牲を支払った歴史があるそうです。表現の自由は天から降ってきたものではなく戦いによって獲得したことになります。そうした過去の歴史があるからこそ暴力によって表現の自由が脅かされることに対して敏感なのでしょう。
 日本においても戦争時には検閲という表現の自由が制限された時代がありました。表現の自由が阻害されることによって正しい判断ができなくなることは疑いようがありません。なぜなら情報が偏るからです。正しい判断には情報の自由な発信が保障されていることが必須の条件です。
 このように表現の自由について考えがふらついていた僕ですが、テレビで評論家の佐高 信さんが話していた内容に納得感を持ちました。
「表現の自由は強者に対して適用されるべき」。
「なるほど!」と合点しました。
 暴力がいけないのは相手を肉体的に傷つけるからです。そうであるなら表現も同じでなければいけません。表現は相手を精神的に傷つけることがあります。マスコミは第四の権力といわれて久しいですが、暴力と同じくらいに力を持っています。たぶん、マスコミによって人生を狂わされた人もいるのではないでしょうか。
 表現の自由が制限された社会は健全ではありません。それと同時に表現によって傷つけられる人がいることにも配慮することが必要ではないでしょうか。
 そんなことを考えさせられる1月です。
 じゃ、また。




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