<あとから振り返ってみると>

pressココロ上




 夏休みも終わりに近づいていた矢先になんとも痛ましい事件が報じられました。大阪・高槻市での中学生殺人事件です。容疑者が逮捕されましたが、そこに至るまでの警察の捜査はプロならではのやり方と感じ入った次第です。
 女の子の遺体が発見されてからマスコミでは駐車場に出入りする自動車の情報などが幾度となく報じられていました。しかし、その時点で警察は本当は犯人のめぼしをつけていたようです。ただ、それについては全く報じられていませんでしたので犯人に警戒されることを恐れたのでしょう。
 行方がわからなくなっていた男の子については結局、犯人が逮捕される前に山中で発見されたのですが、ニュースを見た瞬間に「どうして犯人もわからないのに、遺体がある場所を発見できたのか」と不思議に思いました。
 犯人逮捕後の報道によりますと、警察は容疑者をずっと尾行しており、その最中での遺体発見でした。理由はわかりませんが、犯人が遺体場所を再度訪れそして立ち去ったあとに、その場所を捜索して発見したのでした。結局それが逮捕の決め手になったようですが、日本の警察も捨てたものではありません。というよりは、最近は警察の捜査能力の低下が指摘されることが多かったので名誉挽回というべきでしょうか。それはともかく犯人逮捕に至ったことはとても喜ばしいことです。しかし、あくまで容疑者の段階ですので今後の警察の取調べを見守るというのが正しい見方です。
 このような子供の事件がありますと、僕のような中年はやはりどうしても親の責任について思いが行ってしまいます。ネットなどでも指摘されていますが、中学生が夜遅くに出歩くことに親は注意をしなかったのでしょうか。僕はそれが疑問です。
 僕は20代半ばで父親になりましたので、決して人間的に優れた親ではありませんでした。たぶんこれは僕だけではなく同年代で子供を持った人は誰しもそうでしょうが、完璧に父親業をこなしていたとはいえません。ですので安易に今の若い親御さんを非難する気持ちにはなれません。それでもやはり深夜に子供が出歩くことだけは控えさせるのが親の責任のように思います。
 僕が子育てについて考えるとき、すぐに思い出す本があります。それは漫画家本宮ひろし氏の自伝です。本宮氏は若くして父親になっているのですが、漫画家として成功したのも早く父親になった時点ですでに売れっ子になっていたそうです。
 若さとは常に当人を有頂天にするものですが、本宮氏もご他聞に漏れず売れっ子になったことで連載を多数抱えるようになったそうです。その結果連載を回すことができず出版社に謝罪することになるのですが、その描写がとても印象的でした。
 24歳の本宮氏は涙を流しながら、自分の未熟さを痛感し、そしてそんな自分が子供を育てていることに対しても不安がこみ上げてきたのでした。
「こどもが子供を育てている」
 本宮氏はこのように語るのですが、20代で子供を持つということはまさしく「こどもが子供を育てること」です。しかし、残念なことに当人はそれをまだ気づかないのです。ここに子育ての難しさがあります。
 このように考えますと、人間が立派でなくとも普通の大人に育つのは運がいいとしかいえません。奇跡といってもいいかもしれません。普通に20代になった皆さん、皆さんは親御さんも含めて運のいい人たちといえます。
 今回のニュースを見ていてあとひとつ気になるったことがあります。それは監視カメラの存在です。事件が報じられてから連日、ニュースや情報番組では監視カメラの映像が流されていました。そして、容疑者逮捕にも監視カメラは貢献していたのですが、こうした傾向は今回に限ったことではありません。これまでの事件でも監視カメラの映像がテレビなどで放映されることがあり、そしてそれが犯人特定に役立っていました。
 ですが、監視カメラに対して以前は懐疑的な意見が多かったように思います。それは世の中が監視社会になることへの不安でした。つまり国民が国家や権力によって監視されるというSF小説に出てくるような普通の人が生きにくい社会になることを指しています。実際問題として、自分の行動が逐一誰かによって把握されていることほど気持ち悪いことはありません。そうした実態が今回の事件では証明されています。
 監視カメラが張り巡らされた社会を不安に感じるのは当然ですが、今の段階ではその弊害よりも恩恵のほうが実感されています。たぶん今現在監視カメラの弊害を指摘する人は少数でしょう。しかし、気をつけなければいけないのは国家など権力側は監視されることによって一般市民に弊害が生じてもそれを明らかにしない可能性があることです。
 それはともかく、今のところ監視カメラは当初の不安とは裏腹に恩恵を感じることが多いのが実情です。これはつまり、当初の考えが正しくなかったことになりますが、このように「あとから振り返ってみる」ことで当初の判断を検証することができます。
 ですから、なにかを決めるときは「あとから振り返ってみる」視点を持つことが大切です。その意味でいいますと、新国立競技場の見直しは間違いなく「あとから振り返ってみて」正しい判断だったといえそうです。なにしろ、お金の算段もできていないのに建設を決めるのはどうかしています。
 競技場のように目に見えるものはわかりやすいですが、安保関連法案のように目に見えないものは「あとから振り返る」視点を想像することは簡単ではありません。もののいいようによっていくらでも視点を変えることができるからです。なぜなら、「あとから振り返る」の「あと」は誰も予測することはできないからです。
 もしかすると、安倍首相のいうように日本も集団的自衛権の活動を可能にしておいたほうが正解かもしれません。反対に瀬戸内 寂聴さんや澤地久恵さんなどて危惧しているように、活動を可能にしておいたことで戦争に突き進むことになるかもしれません。
 誰も「あと」のことはわかりません。
 ただしひとつわかることがあります。それは仮に「戦う」ことがあるとき「戦う」人は現場にいる人たちということです。権力者でも政治家でもなく現場で活動している人たちということです。現場にいる人たちが悲惨な目に遭うという事実です。
 自民党の若手政治家が安保関連法案に反対している人たちを「無責任」と批判しましたが、自分は現場に行かないのに法案に賛成することのほうが「無責任」です。法案を支持する方々は自分が現場に立つことを前提として意見を主張する必要があります。
 じゃ、また。
 




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする