先週は安保関連法案問題も新国立競技場問題もそれほど大きな変化はなく、一段落といった感じでした。ですが、それはテレビや新聞などマスコミが大きく伝えないだけで国会前でのデモや反対運動は続いているようです。
安倍首相からは安保関連法案に対する風当たりの強さを和らげるために新国立競技場問題を手際よく解決しようという魂胆が透けてみえます。その後の展開を見ていますと、簡単に1550億円まで予算が抑えられていますが、それならばどうしてもっと早い段階から予算を抑えることができなかったのかという気分になるのは僕だけではないでしょう。
もちろん内部の実情など知る由もありませんが、昔から世間一般でいわれている「ずる賢い官僚」がなにかを企んでいたと勘ぐりたくなります。そうでなければこれほど簡単に予算が低くなるはずがありません。
実は、現在僕が官僚に対してその「ずる賢さ」に憤慨している事案があります。それは警察や検察に対する取調べの可視化についてです。世の中というのは常にいろいろなことが起きてきますので、ついつい大切な問題が忘れがちになります。その大切な問題のひとつにこの「取調べの可視化」があります。
「取調べの可視化」が大切な理由は冤罪と関係があるからです。罪を犯していない人が犯罪人として刑に服することほど悔しいことはありません。本来、刑事事件においては「推定無罪」が基本的考えのはずですが、実際はそのように裁判が行われていません。その証拠に幾つもの冤罪事件が発生しています。
僕の記憶で最も強く印象に残っているのは1995年のオウムの松本サリン事件です。この事件はオウム真理教という真犯人がわかったことで逮捕こそ免れましたが、当初は河野さんという方が犯人扱いされました。おそらく逮捕されていたなら冤罪になった可能性は高かったと思います。当事は、マスコミも捜査当局の発表を鵜呑みするままにまるで犯人であるかのように報じていました。
河野さんは運よく難を逃れましたが、冤罪は布川事件や足利事件、宇和島事件など幾つもあります。近年で最も強く記憶に残っている冤罪事件といいますと、やはり厚生労働省の村木厚子局長が逮捕された郵便不正事件です。
冤罪とは罪を犯していない人が罪を認めることから生じるものですが、普通に考えるなら「余程の厳しい取調べがある」ことが想像できます。単なる「厳しい取調べ」なら問題ありませんが、犯人でない人が罪を認めてしまうほど「厳しい」のならやはり問題です。郵便不正事件はそうしたことを浮かび上がらせました。この事件では警察の誘導尋問により村木氏の犯罪の証言が作り上げられたのです。このような取調べを防ぐために可視化が必要です。
そして、昨年より刑事司法改革が審議されていました。審議会には捜査機関の取調べについて警笛をならしている映画監督の周防正行氏や冤罪の当事者となった村木氏などが招かれていました。周防監督は痴漢冤罪事件を取り上げた「それでもぼくはやってない」という映画を製作していますが、刑事司法改革を強く訴えている監督です。周防氏は審議会のようすを伝える本も書いていますが、普通の感覚の人の視点で審議会を伝えているのがとても勉強になります。
審議会の答申を受けて先の衆院で刑事司法改革関連法案が通過しました。そして、僕が憤慨しているのはその法案の中身です。なぜなら、いつの間にか「取調べの可視化」よりも捜査機関の力が強くなるような法案になっていたからです。具体的には、司法取引の導入と盗聴対象の拡大です。そして、肝心の「取調べの可視化」の対象となったのは刑事事件のわずか数パーセントに過ぎないというありさまでした。
これを「官僚のずる賢さ」といわずになんといいましょう。実は、周防監督もそのことをわかっており、それでも「一歩ずつ前に進むことが重要」と語っています。
いやぁ、それにしても頭のいい人たちはやり方が姑息です。審議会の元々の目的は「罪を犯していない人が罪を認めるような状況になっている」現在の取調べのやり方を改善することでした。その方法として「可視化」が求められたのです。しかし、「可視化」は警察や検察からしてみますと、取調べのこれまでの自分たちの有利さを手放すことです。おいそれとその要望を受け入れるはずがありません。
ここで「すごい!」と感心するのが、単に反対するだけではなく自分たちの要望を受け入れさせる論法です。「可視化」を受け入れる条件を提示することで、結果的にこれまでよりも警察や検察の力が強くなっていきました。やはり頭脳の優れている人は違います。
僕はこのようなことを見聞きするたびに、官僚の人たちは自分たちの力のことしか考えていないのか、と不思議な気分になります。しかし、中には市井で暮らしている平凡な国民のことを親身になって考えている人もいるはずだと思うんです。でも、そういう人は官僚を辞めて他の世界に行くのかなぁ…。
ちょっと、落ち込んだ気分…。
じゃ、また。