<関心>

pressココロ上




 東日本大震災が起きてからかれこれ5年以上が過ぎましたが、ニュースなどを見ていますとまだまだ復興半ばの状況であることが伝えられています。しかし、東京で暮らしていますと東北の人たちの苦境に対して関心が薄れていっているのが実際のところです。
 また今年4月には熊本でも大きな地震が起きましたのでそちらのほうに注目が移ったことも影響しているかもしれません。次から次にいろいろなことが起きますとやはり関心が移るのは仕方のないことかもしれません。
 東日本大震災がほかの災害と異なる一番の点は放射能被害があることです。放射能に汚染された地域に住んでいた方々は移住を余儀なくされたりなど多くの困難に遭遇しています。このように放射能による直接的な被害も大きな損害を与えていますが、それと同じくらい、もしかするとそれ以上に被害を与えていることがあります。それは風評被害です。
 僕は大震災が起きたあと果物の移動販売をしていました。その際に東北を応援する意味合いで東北地方の果物を扱っていました。もちろん公的な審査を通過したうえで安全を証明されたものだけを扱っていました。安全をアピールするために、問屋さんからもらった証明証を掲示するなどして安全性を強調していました。しかし、「福島産」とポップに表示しているだけで避ける人が大半でした。わざわざ「東北のものは恐いから」と忠言する人までいました。
 当時、マスコミでは頻繁に「東北を応援しよう!」などと伝えていましたし、世の中の雰囲気としては「東北がんばれ!」といった風潮がありました。ですが、普通に暮らす生活の中では違う風が流れていました。残念ながら、これが社会の現実です。
 中には、現実の風とは正反対に「応援したいから」と購入してくださる人もいました。そのような人は社会の現実に対して「憤りを感じている」と口にしていました。しかし、全体の割合でいいますと、このような奇特な人の割合は少数でした。
 最近のニュースでよく見かけるのが保育園問題です。しかし、これまでのような「待機児童」の問題ではありません。「待機児童」を解消するための方策がとん挫しているニュースです。
 待機児童を解消するには保育園を増やすしか方法はありません。しかし、保育園を増やすのは簡単ではないようです。理由は、新たに作られる保育園の近隣住民の強い反対があるからです。
 反対の理由としては「車の通りが多くて危険」とか「道路が狭い」など保育園の機能面における不適正さを上げていますが、そのさらに奥には「自宅付近が騒々しくなる」ことに対する懸念があるように感じます。
 以前、小学校近くの住民が学校のチャイムがうるさいとクレームをつけたニュースがありました。学校に限らず子供たちが集まる施設は近隣の住民にとっては不快に感じることもあることは間違いありません。
 ここで僕は保育園開設に反対している住民の人たちを非難したいのではありません。それをも含んで解決する方法を社会全体で考えることの必要性を訴えたいのです。みんなが直接自分とは関係のないことに対して無関心であることは究極的には社会全体が不安定になることであり、その状況が引いては個人の生活に影響を及ぼすからです。
 現在、世界では至るところでテロが起きており、納まる気配がありません。普通に考えてテロを防ぐことは不可能です。テロの究極の形である自爆テロなどは自分の体を犠牲にして行うのですから防ぎようがありません。どんなに科学や技術が進歩しようが日常生活の中に入り混んで行うテロですから防ぐことは不可能です。
 自爆テロを防ぐには個人の生活を監視する以外に方法はありませんが、そのような社会は幸せな社会ではありません。未来小説で語られていた国家が個人を監視する社会です。SFの世界が現実味を帯びてくるのでしょうか。
 東京では築地市場の移転先である豊洲市場に関心が集まっています。ですから、沖縄の米軍基地問題のニュースは大きく取り上げられていません。そんな中、鶴保康介沖縄・北方担当大臣が記者とのやり取りの中で米軍基地問題を「片づける」という言葉で表現していたことが報じられました。
 この記事を読んだときに頭に浮かんだのが、自民党の石原伸晃議員が福島の中間処理施設の建設計画を巡って、記者から質問された際に「最後は金目(かねめ)でしょ」と発言したニュースです。
 どちらも心の中で思っている本音がつい口からこぼれ出てしまった感があります。つまり、両者とも真剣に弱者の気持ちを慮る気持ちに欠けていることが証明されたように思います。米軍基地で苦しんでいる沖縄県民の気持ちに少しでも寄り添う気持ちがあるなら決して「片づける」などという言葉は使えないはずです。
 このことは沖縄以外に住んでいる国民も肝に銘ずる必要があります。沖縄には日本にある米軍基地の75%が集中しているのです。この現実を本土の人たちは忘れてはいけません。
 保育園は必要ですが、保育園が開設されることで生活の平穏さが脅かされるなら誰でも反対したくなります。自分の住んでいるところが保育園開設と関係がないからといって無関心でいることは「最終的にはテロを増やすことにつながるということと同じ」という気持ちを持つことが大切です。
 米国では大統領選の真っただ中ですが、世界にとって危険な人物が世界の覇権を持っている国家の大統領に就くことはとても不安です。僕としてはそのような人物が大統領候補にまでなったこと自体が問題だと思っています。
 一時期、民度という言葉が使われました。民度とは「特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指す」指標ですが、民主主義がきちんと機能するために必要な要素です。これまでは米国は民度が高い国家と思われていましたが、トランプ氏が大統領候補になることを見ていますと、民度が低くなっているのかもしれません。
 トランプ氏が大統領候補にまで上りつめた背景にはポピュリズムがあると言われています。口当たりのいいことに惑わされる人が多いことを示していますが、そこには自分以外のことには無関心であることが根底にあるように思います。もし、真剣に自分のことだけではなく社会全体に対して関心を持っているなら口当たりのいいことだけでは世の中が成り立たないのは明らかです。
 豊洲問題の核心も無関心に尽きるように思います。都職員が豊洲の安全性について真剣に関心を持っていたなら「いつ、だれが、どこで」決定したかわからないような地下空間問題など起きなったでしょう。ただ日々の仕事に流されるだけで業務を行っていたから起きた問題です。無責任という言葉も当てはまります。
 仕事において業務に関心を持つのは当然ですが、仕事以外でも社会に対して関心を持つことは大切です。先月、聖人と認定されたマザー・テレサが語っていました。
「愛の反対語は無関心である」
 自分とは関係ない出来事と思っていても、どこかに不公平や不満があるならそれらが蓄積されて最終的には自分の身に降りかかってくることは、今、世界のあらゆるところで起きているテロが証明しています。
 社会に関心を持つことは大切です。夫婦も同じです。相手に関心を持たなくなることは別れの前兆です。その点、僕は35年経った今でも妻から文句を言われてられてばかりですから関心を持たれている証拠です、…よね。
 じゃ、また。




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