今から10年くらい前ですが、「世界でいちばん大切にしたい会社」という本が注目を集めました。坂本光司さんという大学の教授が執筆した本ですが、従業員を大切に扱っている会社を紹介している本です。その中で日本理化学工業という会社を取り上げているのですが、この本に取り上げられたことでこの会社も注目を集め、そこの社長も注目を集め、いろいろなマスコミに登場していました。中にはわざわざ再現ドラマまで作っている番組までありました。
日本理化学工業が「世界でいちばん大切にしたい会社」に選ばれたのは知的障害者を雇用していたからでした。この会社は「チョークを作る会社」なのですが、その工場で知的障害者を雇用していました。しかも、清掃や後片付けなどといった補助的な業務ではなく、普通の従業員と同じようにチョークを製造する業務をしていることも注目を集めた理由です。
実は、僕はこの再現ドラマも見ているのですが、通常では知的障害者にはできそうもない作業工程を経営者が工夫をして改善している様子に感動を覚えた記憶があります。
ですが、僕はひねくれものですのでマスコミにあまりに頻繁に登場する人を疑いの目で見る傾向があります。なにしろ、世の中にはマスコミの取材のときだけ好人物を演じ、実際は欲にまみれていてマスコミが伝える人物像とはかけ離れた人がいるからです。このような人はどの業界にもいるのが特徴で、芸能人はもちろんとしてスポーツ選手や経営者の中にも、そのような雰囲気を漂わせている人がいます。
ですから、あまりにマスコミ出演が多い人は疑う必要があります。なにしろマスコミに出演するだけでかなりの時間を要しますので、露出が多いということは裏を返せば本来の仕事をないがしろにしていることになるからです。
ですが、日本理化学工業の社長は違っていました。インタビューに答えている雰囲気から「インチキさ」を感じることはなく、マスコミが伝えている人物像がそのまま実際の人柄を表している印象を受けました。しかし、実際に会ったこともありませんので、それ以上の関心を持つことはありませんでした。
知的障害者に対してサポートを行っている経営者はほかにもいます。宅急便を開発したヤマド運輸の中興の祖と言われている小倉昌男氏もその一人です。細かなきっかけは忘れてしまいましたが、小倉氏は知的障害者の置かれている状況がとても悲惨であることに気をかけていました。そして、第一線を退いたあとに知的障害者の労働環境を改善する活動を始めました。
小倉氏の本を読みますと、知的障害者が年齢を重ね働かなければいけない年齢になりますと障害者作業所というところで働くようになるそうです。小倉氏が納得できなかったのは、作業所での月給が1万円ということでした。小倉氏はこうした状況を改善しようと奮闘するのですが、その過程で誕生したのが「スワンベーカリー」というパン屋さんの事業です。このパン屋さんは「障がい者の働く『おいしい焼きたてパンの店』を目指している事業」で、現在も継続されています。
簡単に「継続」と書きましたが、実は知的障害者と普通の健常者が一緒に働くのは傍目から見るほど簡単ではありません。理由は、健常者の側に複雑な気持ちが起こるからです。以前、スワンベーカリーの運営についてのドキュメンタリー番組を観たことがありますが、単に優しい気持ちや思いやりの気持ちだけではお店がうまく回らないのです。番組ではそうしたことまでの伝えていました。ですから、現在も続いていることに驚きとうれしさを感じています。
因みに、小倉氏が福祉に関心を持ったのはほかにもきっかけがあったのですが、それはのちに出版された「小倉昌男 祈りと経営: ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの」(森 健)に書かれています。
それはともかく、スワンベーカリー事業を紹介する番組でも報じていたように、日本理化学工業でも健常者と障害者の軋轢が起こっていました。人間という動物は扱いが難しい生き物のようで、短い期間ですと他人に対して優しさや思いやりを発揮することができます。しかし、一定の期間が過ぎますと優しさとか思いやりという感情は失せてしまい、不満やいら立ちを感じるようになってしまいます。
そもそも何故、10年くらい前に注目された日本理化学工業という会社について僕が今回書いているかといいますと、先日本屋さんに行きましたところ、この会社を取り上げている本がランキングに入っていたからです。「虹色のチョーク」という本です。
僕は、不思議でした。なんでこんな10年も前に注目を集めた会社について書いてある本がランキングに入るのか…、と。
答えは、著者にありました。小松成美さんです。
サッカーの中田英寿選手が第一線で活躍していた頃、「中田語録」という本がベストセラーになりました。中田選手はマスコミ嫌いで有名でしたが、その中田選手の言葉を集めた本ですので注目されるのも当然といえば当然です。ベストセラーになるべくしてなった本と言えます。この本が売れた最大の要因は、著者が中田選手から出版の了解を得られるほどの親密さと信頼関係があったことです。そして、この本の著者は小松成美さんでした。
スポーツ選手の中にはマスコミと距離を置こうとする人が少なくありません。競技が好きで始めたにも関わらず、有名になるにしたがってプライベートも含めて競技以外の部分がクローズアップされることに反発する気持ちが起きるからだろうと想像します。先日、箱根マラソンで山の神と言われていた選手が27才という若さで現役を引退しましたが、僕はマスコミから注目されることと無縁ではないと想像しています。
マスコミと距離を置く選手はマスコミからしますと扱いにくい選手ですが、そうであるだけにその選手のインタビュー記事などは価値が高くなります。そのような状況になりますと、今度はその価値を手に入れようとするマスコミ関係者という人が出てきます。インタビューをできるほど親しい関係になることが、マスコミ人としての価値を高めることになるからです。俗な言い方をするなら、「有名人と懇意にしてるから話を聞けるよ」という立ち位置です。
実は、「中田語録」が出た当初、僕は小松成美さんについてそのような印象を持っていました。マスコミ嫌いな中田選手の「語録」を出版できるということは普段から出版狙いで親しくしていた可能性が高いと感じていたからです。
ところが…。
小松さんの著作歴を見ますとスポーツ選手が多いのですが、しかもどちらかと言いますとマスコミに露出するのがあまり得意でない人が多いのが特徴です。そんな中、名前は忘れてしまったのですが、わざわざ小松成美さんを指名して本の出版を許可している人がいました。それを知ってから、僕の小松成美さんに対する見方が変わったのでした。
そのような経緯がある中で小松成美さんが「虹色のチョーク」という本を出版していましたので、とても気になったのでした。
中を読みますと、僕の期待にたがわぬ内容でした。「世界でいちばん大切にしたい会社」の中では日本理化学工業に割いているページ数はそれほど多くはありませんが、「虹色のチョーク」は224頁です。表層的なことだけを書いていたのではページ数が余ってしまう量です。
この本の中で僕が一番興味を持ったところは、「健常者の人たちが障害者に対して上から目線で接していることに違和感を持った社長」でした。そのあたりの微妙な対応の仕方について小松さんは丁寧に書いています。この本の核心はここにあるのではないでしょうか。
現在、そしてこれから少子高齢化の社会になることはわかりきっていますが、そうしたときに突き当たる壁は健康な人と年老いた人の対立です。健康な人は短期間ならば年老いた人に優しくすることはできるでしょう。しかし、それが未来永劫続くとなると不安がもたげてくるはずです。不安だけならよいのですが、それは不満になり苛立ちになったとき虐待という最悪な状況が起こることも予想できます。
そのような社会にしないためには日本理化学工業の社長が取り組んだように、健康な人たちが無理をする感覚ではなく自然に年老いた人たちに優しくできるシステムを作ることです。感情だけに訴えて期待するやり方では必ず破たんが訪れます。
「虹色のチョーク」はそんなことを教えてくれています。
じゃ、また。