<エッセイ>

pressココロ上




僕は本屋さんに行くのが好きなのですが、本がたくさん並んでいる光景を見るだけで胸がワクワクしてきます。本屋さんにもいろいろな形態がありますが、基本的に僕が好きな本屋さんは規模の大きな本屋さんです。たまに「街中にある小さな本屋さん」について書いているエッセイなどを見かけることがありますが、僕が好むのは大きな本屋さんというか、「大きな」とついている時点で絞り込まれてきますが、「書店チェーン」ということになります。

大きな書店でいろいろな本のコーナーを眺めているだけでうれしくなってきます。僕はラーメン店を廃業したあとの一時、図書館によく行っていましたが、図書館ももちろん胸が高まる空間でした。大きな書店チェーンに負けないくらいの種類と量が揃っているからです。

ラーメン店を営んでいた頃の僕はほぼ一日中お店で働いており、休日も仕入れなど仕事関連の用事がありましたので、時間的に書店や図書館に行くことは不可能でした。ですので、ラーメン店を廃業して一番うれしかったことは本を読む時間が取れるようになったことでした。

しかし、子供の頃から本を読むのが好きだったかと言いますと、決してそうではありません。子供の頃は身体を動かすことが大好きなスポーツ少年でしたので、本というか文字を読むということに全く関心がありませんでした。

そういう感覚のまま青年になりましたので、大学で知り合った友だちが毎日文庫本を持ち歩いているのが不思議でした。その友だちは「二日に一冊読む」ことを目標しているほどの本好きでしたが、僕は共感する感性を持ち合わせていませんでした。

そんな僕が本に興味を持つようになったのは、独立してラーメン店を営むようになったことがきっかけです。なにしろラーメン業界のことも飲食店経営のこともなにも知らずに独立していましたので、開業してからが勉強の日々でした。体験記に書いていますが、「オープン景気」が終わったあと売上げが激減したことで、有無を言わせず「勉強しなければいけない」状況に追い込まれていました。

僕と本との出会いにはこうした経緯がありましたので、最初はビジネス関連の本に興味を持つようになりました。売上げを上げるにはどうすればよいのか。暇な時間を見つけては「売上げアップ」を指南している本を必死で読んでいました。このようにビジネス関連本を入り口に、徐々にほかの分野にも裾野が広がり、「人生について」のような本に興味を持つようになりました。自分でも理由がわからず、また知識もなかったのですが「人生訓」のようなものに強く惹かれていきました。

自らをよくよく振り返りますと、僕にはそうしたものに興味を持つ予兆が学生時代からあったように思います。学生時代、文字は読まなかった僕ですが、漫画は好んで読んでいました。その漫画の好きな作品の一つに「浮浪雲」(ジョージ秋山・著)があります。この「浮浪雲」は江戸時代の問屋の頭(かしら)が主人公なのですが、「禅問答」のようなセリフのやりとりが魅力でした。「禅問答」なのですから、人生について裏表から解説している内容です。一見チャラチャラしている主人公が、「ここぞ」という場面では正義の鉄槌を下すところも魅力的でした。結局、この漫画は学生時代からラーメン店時代までずっと読み続けていました。

そのような土壌があった僕ですので、ビジネス関連本から次第に人生訓的な本、哲学的な本、その延長線として哲学者が書いたエッセイ本などと読む範囲が広がっていきました。このようにして読む範囲が広がっていった僕ですが、なかなか手を出しそびれているジャンルがあります。…小説です。

理由は自分でもわからないのですが、小説にはなぜか興味を感じないのです。その代わりと言ってはなんですが、映画はとても好きです。僕は毎週、自サイトに「映画の感想」をアップしていますが、週に一作品は必ず観ています。文字で読むよりも映像のほうが面白いと言っては小説を書いている先生方に申し訳ありませんが、それが正直な気持ちです。

こんな僕が最近読んで面白かった本が、ブレディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」です。この本は「英国の『元底辺中学校』に通う息子さんの日々を記した著者のエッセイ」なのですが、英国の実情を知ることができてとてもためになりました。英国といいますと、最近ではやはりEU離脱が世界から注目されましたが、ニュースなどで報じられることとはまた一味違った英国の雰囲気・風景を知ることができました。

しかし、この本に描かれていることはあくまで著者の視点からの実情であることは注意を払わなければいけないと思っています。このように書いてしまいますと、著者を疑っているようですが、「疑う」とか「信頼している」とかの問題ではなく、どんなエッセイでも著者の思想とか考え方が少なからず著作に影響をしているのは間違いがないと思うからです。この本に限らないのですが、エッセイを読むときは常にそうしたことを念頭に置いて読む必要があります。

そうしたことを念頭に置いても、僕はこの本に共感しました。これは著者が英国の中でもエリートの位置ではなく、いわゆる庶民的な暮らしをしている方だからです。昔から「英国は階級社会」と言われていますが、自らが属している階級によって考え方や意識が違っているのは当然です。著者は保育士として働いていますし、夫も金融機関を辞めたあとトラックの運転手をしています。こうした著者の境遇が、僕がこの本の視点に共感する担保となっています。もし、夫が金融機関に勤めている方であったなら、少し共感が薄れていたかもしれません。

僕はときたま「普通の生活ではエッセイのネタになるようなことは起こらない」と書いていますが、ネタはエッセイを書く際の重要な要素です。重要どころか、ネタがなければエッセイそのものを書くことができません。ですので、エッセイを書くにあたっては、ネタになるようなことを血眼になって探したり考えたりすることになりますが、まかり間違ってしまいますと「捏造」につながることもあります。

「捏造」には犯罪の匂いが漂いますので、さすがにそこまではいかなくとも「大げさ」に表現することはありそうです。それを「演出」という人もいそうですが、「大げさ」と「演出」の差は紙一重です。テレビ業界でも「やらせ」が問題になることはありますが、「やらせ」の一番の問題は「真実でない」ことをあたかも「真実である」かのように伝えることです。

エッセイは日々の出来事を面白おかしく伝えることですが、その「日々の出来事」が真実でないことがわかったなら興醒めし、面白さがなくなってしまうでしょう。それほどエッセイにとって真実は大きな意味を持ちます。それと同じくらいに、もしかするとそれ以上にエッセイには重要な要因があります。それはエッセイの素材(ネタ)になる人の人権です。

エッセイは日々の出来事を綴った内容ですが、その出来事には必ず対象になる人が出てきます。どんなエッセイも人が出てこなければ面白さは生まれません。仮に風景などが素材であったにしても、その風景にかかわる人の存在があって初めてそのエッセイは面白くなります。

その人の人権とは、その人への「世間や周囲の人からの視線」と言い換えることができます。かなり昔ですが、「積木くずし」という本が大ヒットしたことがあります。これは父親が、自分の娘が不良になり更生するまでの過程を綴った本ですが、父親が有名な俳優だったこともあり、その「子育てぶり」が社会的に注目を集めました。

この本がきっかけで、その父親は「教育コンサルタント」のような肩書まであてがわれるようになっていました。このように社会的に大成功した父親でしたが、その裏では「本の素材(ネタ)」となっていた娘さんは一層苦しめられる状況になっていったのです。理由は、どこにいても社会・世間の目にさらされるようになっていたからです。父親が有名になればなるほど、「本の素材(ネタ)」になっていた娘さんは苦しめられていたのです。

こうしたことが明らかになったのは、娘さんが大人になってからのかなり後年ですが、ある人について文章にすることの難しさを知りました。このように、自分の意志でなく社会的に「有名にさせられるリスク」が文章にはあります。エッセイはまさにその文章です。

エッセイの素材(ネタ)が自らであるときには「有名になるリスク」は自らが負うだけで済みます。ですが、自分以外の第三者を「素材(ネタ)」にするときは注意が必要です。今の時代は誰でも情報発信できる時代ですが、その際は「ネタのリスク」について慎重に考えることが必要です。

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の素材(ネタ)は息子さんなのですが、この本の最も重要なポイントはご家族が日本ではなく英国で暮らしていることです。もし、日本で暮らしているご家族だったなら、間違いなく少年はいじめにあっていたでしょう。

じゃ、また。




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