<コタツ記事>

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僕が大好きだったラジオ番組「たまむすび」が終了して、早3ヶ月が過ぎようとしています。それに関連しては4月に2つほどコラムを書いていますが、2つ目の記事では新しくはじまった「こねくと」という番組のパーソナリティ石川蓮華さんを取り上げました。先入観として持っていたイメージとは違う、という好意的な感想を書いたのですが、だからと言ってずっと聴いているわけではありません。

人間というのは不思議なもので、パーソナリティによいイメージを持ったとしてもその人のラジオを聴き続けるということもありません。なんなんでしょうね。自分でもわかりませんが、なんとなく聴きたい気持ちにならないのです。石川蓮華さんには申し訳ないのですが、どうしてもラジオのスイッチを押す気分にまではなりません。

同じ流れでやはり、なんとなく聴く気分にならないのがポッドキャストで流れている博多大吉さんの「いったん、ここにいます」という番組です。この番組は大吉さんが「たまむすび」に関連していた人とトークを繰り広げる番組なのですが、最初の数回は聴いていたのですが、なんとなく聴かなくなってしまいました。つまり「あまり面白くない」と思ったことになります。

僕は幾度か博多華丸大吉さんについてこのコラムで書いていますが、このお二人ほど「仲良く漫才を続けているコンビはいない」と思っています。現在はNHK「あさイチ」にも出演していますが、仲の良さが画面から伝わってきます。本当にお二人を心から尊敬しています。

僕の記憶では、売れっ子になった漫才コンビでありながらずっと仲のいいままでいるコンビは稀です。少し思い返すだけで「横山やすし・西川きよし」「おぼん・こぼん」「オール阪神・巨人」などと出てきますが、これらの漫才師の方々は「仲の悪さ」が公になっていました。

そこまで「仲が悪い」とは言わなくとも「仲が良くない」関係になるのが圧倒的に多い中で「博多華丸大吉」さんはずっと仲良しです。このお二人に対する感激は以前書きましたのでこれ以上触れませんが、大吉さんは「たまむすび」のファンの方々に敬意を表して、ポッドキャスト「いったん、ここにいます」をはじめました。そうした経緯がありましたので、最初の数回は聴いていたのですが、申し訳ないことに聴かなくなってしまいました。

ポッドキャストの話はひとまず置いておくとして、今僕が聴いているラジオ番組は「宮藤さんにいってもしょうがないんですけど」と「武田砂鉄のプレ金ナイト」という番組です。僕はこの二つを「ラジコ」で聴いているのですが、少し前、昨年お亡くなりになりました小田嶋隆さんについて武田砂鉄さんが話していました。

小田嶋さんがお亡くなりになってちょうど1年ということで、小田嶋さんを偲ぶイベントに参加したお話をされていました。その話の中で知ったのですが、そのトークイベントの司会を務めていたのは、なんと赤江珠緒さんだったそうです。小田嶋さんは「たまむすび」に出演していましたのでその関係で司会を務めたのだと思いますが、「たまむすび」終了後表立ってメディアに出ていませんでしたので、イベントの司会を務めていたことを知り、赤江さんの引き際の潔さに感心しました。

最近は、表舞台の第一線を退きながらもインスタなどSNSで近況を報告する有名人が多い中、赤江さんはそういう活動を一切していません。人間というのは一度光が当たった経験を持ってしまいますと、その栄光の感覚が忘れられない生き物です。ですので、SNSなどで近況を報告したくなるのでしょうが、赤江さんはそのような活動を一切していません。その気概に感服しています。

今週のタイトルは「コタツ記事」ですが、僕が初めてこの言葉を知ったのは、実は「たまむすび」内での小田嶋さんの発言でした。もう言わずもがなとは思いますが、念のため説明をしますと「コタツ記事」とは「ジャーナリスト、ライターが現地に赴いて調査を行ったり取材対象者に直接取材したりすることなく、インターネットのウェブサイト、ブログ、掲示板、SNS、テレビ番組などのメディアで知り得た情報のみを基に作成される記事」(ウィキペディアより引用)のことです。自らは行動を起こさず「コタツに入りながら書く記事」から命名されたようです。

もちろん小田嶋さんは「コタツ記事」を批判的に見ていましたが、実は僕は「コタツ記事もありかな」と思っています。「コタツ記事」を例えていうなら、「人の褌で相撲を取る」ようなものですので「価値がない」ように思えます。ですが、「コタツ記事」は基本的にポータルサイトで使われています。

僕はポータルサイトの意義は「世の中にあふれている情報を取捨選択して届けること」と考えています。従前指摘されているように、「刺激的な見出しでサイトビューを稼ごうとする魂胆」はいただけませんが、それをある程度許容するなら「コタツ記事」は十分に価値があります。

例えば、新聞ですと読売や産経は政府寄り、朝日・毎日は政府に批判的と言われていますが、このことはつまり世の中にはいろいろな意見があることを示しています。それらいろいろな意見、大げさに言うなら主義・主張を知ることができるのが「コタツ記事」であり、それらが並んでいるポータルサイトです。もちろん深く詳しくではありませんが、違う考えを知るきっかけとしての効能があるのは紛れもない事実と思っています。

またインターネットのデメリットして、「自分の好きな情報だけに偏る」と言われることがありますが、僕はこれにも異論があります。これはサイト側が意図しているのかはわかりかねますが、ときに主張が正反対のものや角度が違う内容の記事がおすすめ欄で紹介されることがあります。同じ考え・発想の情報だけが目に入ってくるわけではないのです。そうした記事をクリックするかどうかは、あくまで個人が決めることです。

インターネットのデメリットを説明する際のケースとして書籍の辞典とか本屋さんが使われることがあります。辞典の場合は「あいうえお」順に語句が並んでいますので、無意識に「探している語句以外の語句が目に入ることがある」のが書籍のメリットとしています。全く知らない知識・情報に触れる機会がある、というわけです。

本屋さんの場合も同様で、ネットで本を探す場合、それ以外の本を目にすることがないのに対して、本屋さんでは棚を見ていることで自然にほかの本が目に入ってくる、とネットに比較した本屋さんのメリットが説明されています。

ですが、ポータルサイトのケースでも書きましたように、ネットのサイトで本を探しているからといって似たような、同じような、偏った情報だけに接するということでもありません。ネットサーフィンという言葉はもう死語かもしれませんが、ネットでどんどん関連するサイトを移動していますと、知らず知らずのうちに知らない世界に導かれることがあります。

もちろんネット中毒は褒められたことではありませんが、ネットでいろいろな情報に接するということは、本屋さんの中をいろいろと見て回っていることと同じです。多くの人はいろいろな情報に接しながら気になった情報を詳しく知ろうとクリックを続けていきます。

陰謀論という言葉がマスコミで注目されたことがありますが、陰謀論にはまる人たちはいろいろな情報に接しなかったことが理由ではなく、いろいろな情報に接しながらも陰謀論以外の情報に関心・興味を示さなかった人たちです。最終的には、個人が決めることです。

そして、その際に最も重要なことは情報の信ぴょう性に関して自分で裏をとることです。昔から情報に踊らされ、間違った行動をとる人たちはいましたが、今の時代は「情報の信ぴょう性」を自分で確認することができます。ロシアでプーチン大統領の方針を支持している人たちはプーチン大統領が発している情報の裏をとっていない人です。

確かに「自分で裏をとる」のはそれなりに苦労が伴い大変ですので、与えられた情報を安易に信じる方が楽です。ですが、騙されたことも「立派な罪である」と先の戦争で敗けた国民に対して「無知の罪」と喝破した伊丹万太郎という映画監督がいました。

じゃ、また。




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