<夏休みの工作>

pressココロ上




毎年夏休みが終わったあとに物議を醸すのは宿題として提出される「夏休みの工作」のクオリティです。明らかに「親が手伝った」と推測できる、あるいは「手伝う」の範疇を超えて「ほぼ作った」としか思えない作品があるからです。言うまでもなく親が「ほぼ作った」作品は論外ですが、親が「手伝っただけ」にしても、その割合は闇の中ですので、そうした状況が物議を醸す理由です。

たまに中学生とか高校生の作文コンテストなどを表彰する模様がニュースで報じられることがあります。例えば、反戦とか人権などをテーマにしたものですが、優秀な作品が発表される映像を見ていますと、「夏休み工作の疑惑」を推測している僕には、どうしてもひっかかるものがあります。「それ、本当に当人の作文なの?」という疑問です。

僕の推測では、生徒が提出する段階で作文に「手をくわえる」ことができるのは夏休み工作同様、親もしくは年上の兄弟姉妹といった近親者です。しかし、クラスや学校の選抜を通り抜け、さらに広範囲な都道府県の大会に進出しますと、学校の先生などが添削することがありそうです。段々とレベルが高い修正が加えられると想像するのですが、自校の生徒が表彰されるのは学校としても名誉ですので、そうした「手入れ・サポート」があったとしても不思議ではありません。

僕が中高生の頃、夕方に放映されていた若者向け情報番組がありました。その番組では素人がコメディアンを目指すコーナーがあったのですが、そこで勝ち抜くと芸能界にデビューできるルールだったように記憶しています。今ではもうベテランの域に達している関根勤さんとか小堺一機さん、今では大御所の俳優・監督になっている竹中直人さんなどを輩出していたコーナーです。

そのコーナーから誕生した「ザ・ハンダース」という6人組のお笑いグループがあったのですが、そのグループは数年間は売れていましたが、いつしか芸能界から消えていました。後年、そのグループで一番人気があった方がある雑誌のインタビューを受けている記事を読んだことがあります。

デビュー当時は「とにかくシボられた」と語っていました。素人が集まって生まれたグループですので当然かもしれませんが、毎回番組が終了したあとにプロデューサーから厳しい指導を受けていたそうです。ノイローゼになる一歩手前くらいの厳しさだったそうですが、心の中では辟易していたそうです。

似たような話をほかの芸人さんが話しているのも読んだことがありますが、そうした事例を見聞きするたびに違和感を持っていました。理由は、プロデューサーはお笑いのプロでもなければ、舞台に立った経験もない人です。そうした人が芸人の出演を決める権限を持っていることをカサに着て、偉そうにふるまっているように思えたからです。

昔、ある女性シンガーソングライターがデビューするまでのドキュメント番組を見たことがあります。その中でとても印象に残っている場面がありました。その場面とはレコーディングをしているときの様子ですが、そこにはその女性と男性が映っていました。力関係で言いますと、男性のほうが上のような雰囲気でしたが、その男性が「ここの歌詞は変えたほうがいい」と言いながら、辞書を引いては次々に女性が作った歌詞を変えていきました。そうしたやり取りが幾度か続いていたのですが、女性はときおり納得できない表情を浮かべながらも、力関係が上のように見える男性に従っていました。

似たような経験をしていた男性のシンガーソングライターの話も読んだことがあります。その方も今ではベテラン中のベテランの立ち位置になっていますが、その方もデビューした当時のレコーディング中にアドバイスをするレコード会社の人と対立し、途中でレコーディングを中止したことがあるそうです。

芸能界のこうした話は、今風にいいますと「あるある話」でしょうが、素人または新人に対して周りの先輩や役職が上の人たちがこぞって意見をする場面はどこの世界でもあるようです。先日、MLBのダルビッシュ投手の記事を読んだのですが、ダルビッシュ投手は日本のコーチの人たちに対して苦言を呈していました。端的に言いますと、「自分の考えを押し付けすぎる」ということです。その点がMLBと最も違うところだそうです。

人にはそれぞれ長所もあれば短所もありますが、当人が才能を伸ばす方法は人それぞれのはずです。長所を伸ばすことで才能を開花させる人もいれば、反対に短所を修正することで大化けする人もいます。どちらを選ぶかは当人が決めるべきです。しかし、日本ではコーチが自分の思うようにさせることで成長させようとしているそうです。これでは、成功するにせよ失敗するにせよ、当人は納得・満足をできないのではないでしょうか。自分が「決めたことではない」、それはすなわち「自分の本当の実力ではない」ことになるからです。選手はコーチのロボットではありません。

世の中には文章を書くことで生計を立てたいと思っている人がたくさんいます。もちろん僕もその一人ですが、誰でもできる「文章を書く」ことを生業するのは容易ではありません。今の時代は誰でも情報を発信できる時代ですが、それはすなわち敷居が低いということになり、そうであるがゆえに競争はより激しいことになります。競争が激しい業界を勝ち抜くのは並大抵の才能ではできません。

出版業界でコーチに当たる人は編集者でしょうか。先日、noteという投稿サイトで、潮井エムコさんのエッセイ「置かれた場所であばれたい」が出版に至るまでの話を読みました。一般人が本を出版するのは大変なようで、そこには出版に至るまでの苦労がつづられていました。それにしても、編集者も含めて校正・校閲を担当する方からはかなり細かい手直しの要請があるようです。

実は、僕が「校正」とか「校閲」という言葉を知ったのはほんの数年前ですが、「文章のプロ」という表現がふさわしい仕事のようです。普通の人では気がつかないような文章の行き違いや過ちを指摘するのですから、並外れた文章解読・解析、情報力を持っていなければできない仕事です。そうした人のサポートがあって初めて、本というのは出版されるのだと感動しました。

でも、でも、です。そうであったにしても、そうして出来上がった作品はその著者の本なのでしょうか。僕にはその部分がどうしても納得できないものがあります。きっかけは編集者の目に留まるだけの文章力があったことですが、出版に際してはその文章をプロの方々によって手直しされるのです。そうして出来上がった作品を著者の本と言えるのでしょうか。

僕の大学時代の友人は「おしゃれのセンスがない」と自分でも話していましたが、確かにイマイチの服装をしていました。その友人が、ある日とてもセンスのよいおしゃれな格好で来ました。不思議に思い尋ねますと、ニヤリとしながら「実は、デパートのマネキンの服装を全部揃えたんだ」とうれしそうに答えました。しかし、人間というのは不思議なもので、見た瞬間はおしゃれに見えても、見慣れてくると自然におしゃれのセンスのない友人に戻っていました。外見だけをよくしても、本質を変えるのは容易ではありません。

外見をおしゃれにした友人は、友人の本当の姿ではありません。友人の魅力はおしゃれのセンスがないところを含めて友人なのです。出版社を通じて発売される本はプロの手によって手直しされ精錬された本になっています。しかし、精錬された段階でその著者の本質とは離れてしまっているように思います。そんな著者は、コーチに言われるがままに熟達したロボット選手のようです。

仮に、作品的には劣っていようとも、また素人臭さが残っていようとも、過ちがたくさんあろうとも、素人なりの表現の拙さがあろうとも、プロの手が入っていない文章には著者の本質が表れています。精錬されたものは美しいですが、それは本質ではないようにように思えて仕方ありません。

完璧な人って面白くないですよね。人間味がありませんよね。無様なところや過ちがあることも含めてその人なのですから。

夏休みの工作は、やっぱり自分で作らなくちゃ。

じゃ、また。




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