<無駄と成果>

pressココロ上




先週は僕がイギリスについて抱いていたイメージを、自らの成長に合わせながら綴りました。それはまた、僕が考えるイギリスの功罪についても書くことでもありましたが、今週もその延長になりそうなことを書こうと思います。最近のいろいろなニュースを見ていますと、どうしても僕がイギリスに対して抱いている問題の延長線上にあるように思えて仕方ないからです。

至極単純に言ってしまいますと、人類の歴史は「力のある者が世界を牛耳る」ことの繰り返しです。二つの世界大戦を経て、ようやっと平和を構築するシステムが作られましたが、ロシアのウクライナ侵攻を見ていますと、そのシステムが機能しなくなっていることが露見しています。岸田首相は「力による現状変更は認められない」と語っていますが、本来はこの考え方が世界の基本的な考え方のはずです。

度々書いていますように、僕はNHKの「ダーウィンが来た」という自然界で生きる動物を追うドキュメント番組を見ているのですが、自然界の厳しさを思い知らされることばかりです。自然界は完璧に「弱肉強食」の世界で、弱いものは簡単に命を奪われますし、食べられてしまう、とても厳しい世界です。

その反面、「親子の愛」の強さは生半可ではありません。毎回不思議に思うのですが、子どもを産んだ親が、母親学級のような「育て方を教えられる場がある」わけではないにもかかわらず、立派に子育てをしています。その光景には感動すら覚えます。しかも子育てが終わる時期になると子に対して自立さえ促します。考えようによっては人間以上の厳しさで子育てをしているわけで「動物業(わざ)」とは思えません。

人間界における最近のネグレクトや虐待のニュースを見ていますと、「動物を見習うべき」と思わされることが度々ですが、弱肉強食に関しては別です。人間社会では弱者も生存できるようにするのが人間としての証です。テレビでは恵まれない子供たちへのサポートを呼びかけるCMが流れていますが、最低限の生活さえ送れない子供たちがいる人間社会は健全ではありません。人間社会は弱肉強食であってはいけないのです。

以前、ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎さんのインタビューを読んだことがあります。真鍋さんは現在米国の大学で研究を続けているのですが、1958年に米国へ渡り、1975年には米国籍を取得しています。真鍋さんによりますと、「日本よりも米国のほうが研究をする環境が整っている」ということですが、そこには物理的なことのほかに人間関係があるそうです。

簡単に言ってしまいますと「周りの人を気にせずに研究に没頭できる」ことのようですが、日本の場合は周りとの人間関係を意識しながら研究する必要があるそうです。また、米国では「研究費で苦労することが全くなかったことも大きい」と話しています。ノーベル賞を受賞するくらいの研究をするには財源の確保も重要なことがわかりますが、日本はそのような環境になっていないとのことでした。

真鍋さんの記事を受けて、日本で研究に従事している学者の方々が科学の発展には「余裕のある環境が必要」と声を上げています。日本では「すぐに成果がでない研究を行うことはできない」状況になっているらしいのですが、今の状況を「選択と集中の競争主義」と表現し、このままでは「ノーベル賞受賞者が消える」とまで危機感を募らせています。

ある学者の方は「無駄があるほうが、科学の芽が出てくる」と話していましたが、そのためには「無駄」を許容する環境が必要です。「無駄」の反対にある概念は「効率・効用」です。ビジネス界では「コスパが高い」などと表現することがありますが、「より低い費用で、より高い効果」を求めるのが基本的な考え方です。「無駄」はできるだけ省くのが有能なビジネスマンです。

「無駄は少ないほうがいい」には効率のほかに有益なことがあります。それは正しい「評価」につながることです。仮に勤務中に「無駄な」動きをしている労働者と「効率的に」動いている労働者がいる場合、後者の労働者のほうの「評価」が高くなります。仕事が終わったあとの結果・成果が大きく違っているからです。仕事が正当に「評価」されないのであれば、誰も一生懸命働こうとは思わないでしょう。これが労働者でなく兵士であったなら自軍はすぐに負けてしまいます。

もし「結果・成果」を問わない「無駄」を認めてしまうなら、「評価」がほかの要因で決められることになります。例えば、上司に気に入られることだけに注力したり、賄賂を払ったりするようになります。「結果・成果」を問われないのですから、それ以外のことで「評価」獲得を目論むのは古今東西にいくらでも例を見ることができます。

あと一つ「無駄」の問題点を挙げますと、それは「羅針盤のない船」になる可能性です。もう少しわかりやすく説明しますと、「正しい方向へ向かっているかの目安がない」ことです。間違った方向へ向かっていたとしても「無駄」を認めているのですから、「間違い」と判断することができないことになります。

このように本来は、平等で公平な評価をするためには「無駄」はないほうがよいはずです。そして、冒頭に紹介しました「弱肉強食」の自然界も「無駄のない社会」になっています。無駄なことをしていては、厳しい世界を生きていくことはできません。

ですが、学者の方々は「無駄はあったほうがよい」と訴えています。「すべてを効率だけで判断していたなら画期的な発見や発明ができない」と提言しています。しかし、そのために必要なものは、財源の裏付けです。「画期的な発見や発明」にはお金が不可欠です。

今から数年前、京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥所長が政府からの援助がなくなることに関して会見を開いたことがあり、注目を集めました。ご存じのとおり山中所長はノーベル賞を受賞した著名な方ですが、その方でさえ公的な援助を得るのが難しいことが公になりました。当時、ある官僚の方の恣意的な発想で援助打ち切りが決められたことが週刊誌の記事にもなったように記憶しています。

エリザベス女王の国葬を見ていますと、とても豪華で絢爛ですが、あれほどの国葬を行えるのは、やはり財源があるからです。そして、そうした財源はかつて植民地支配をしてきたことと無縁ではないでしょう。実際、女王逝去に際して、インドでは冠に飾られているダイヤモンド「コイヌール」の返還の声が上がっているそうです。

植民地支配とは、現地の人たちから富を奪うことです。そうした過去の上に現在のイギリスの繁栄があることを思うと複雑な気持ちになってしまいます。簡単に言ってしまいますと、かつて悪いことでお金儲けをした奴が、その後に常識人になって真っ当なことを訴えてもなんかなぁ…、って感じです。

最後にとんでもないことを告白しますが、実は本日のコラムは筆があまり進まず、結論の落としどころが見つからず、あまりよいできではありません。読者の方に「無駄」な時間をとらせてしまい申し訳なく思っています。

でも、ときには「無駄」も必要ということで…。

じゃ、また。




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