<しあわせって、なんだっけなんだっけ>

pressココロ上




先週は落語家の三遊亭円楽師匠の訃報が届き驚いていたところ、その翌日には元プロレスラーであり参議院議員も務めたアントニオ猪木さんの訃報までが報じられました。僕のような昭和世代ですと、やはり心に深く染み入るものがあります。

円楽師匠はご病気から復帰したあと高座で演じている姿をニュースで見ていましたので快方に向かっているとばかり思っていました。涙を手ぬぐいで拭きながら「みっともない姿になろうとも、最後まで頑張る」と話していただけに驚きました。外見から思う以上に病は進行していたのかもしれません。

アントニオ猪木さんは闘病中の映像が動画などで伝えられており、体調がかなり悪そうなのは知っていました。ですが、そうであっても訃報に接しますとやはり寂しさを感じずにはいられません。

昭和も過ぎにけり…、といった感です。

それほどのプロレスファンでもなかった僕が猪木選手で思い出すのはボクシングヘビー級チャンピン「モハメッド・アリ」さんとの異種格闘技です。それまで異種格闘技というジャンルがなかっただけに、しかも世界的知名度が抜群に高いモハメッド・アリ選手との試合ということでとても注目を集めました。

現在では異種格闘技はそれほど珍しくもありませんが、当時はそのような試合は行われたことはなく、仲間内の対戦ではなく正式な試合としては、おそらく異種格闘技の最初の試合だったのではないでしょうか。

先日、総合格闘家の朝倉未来選手と元プロボクシングで5階級を世界制覇したフロイド・メイウェザー選手のエキシビションマッチが行われましたが、その試合は完璧にボクシングルールに則って行われました。つまりは朝倉選手がメイウェザー選手に合わせたことになりますが、「猪木 vs アリ」戦はボクシングルールとは少しばかり変わった内容で戦ったそうです。

「ロープに触れた相手への攻撃は禁止」「立った状態でのキックは禁止」「頭突き、ひじ打ちは禁止」。このようなルールでしたので、結論を言いますと、「試合とは呼べない代物」となってしまいました。15R制だったのですが、猪木選手は1Rから15Rまで徹底して寝ころんだままアリ選手に向かっていったからです。

猪木選手がそうした戦法をとらざるを得なかった理由は、元世界チャンピンのパンチをまともに受けてしまいますとひとたまりもないことがわかっていたからです。僕のような素人でも想像がつきます。対して、アリ選手からしますと足蹴りとか寝技を受けてしまいますと歯が立つはずがありません。そうなりますと自ずと、双方とも戦い方が慎重になります。「試合とは呼べない」代物になったのも当然かもしれません。

不完全燃焼に終わった「猪木 vs アリ」戦に比べますと、先日の「朝倉 vs メイウェザー」戦は見応えがありました。エキシビションマッチとはいえ、朝倉選手のKO負けが示すようにそれなりに緊張感もあったことが要因です。メイウェザー選手は4年前にキックボクシングの那須川天心選手とも戦っていますが、現役を引退したあとの新たな人生フォーマットを見つけたのかもしれません。

メイウェザー選手は前回、今回と数億円ともそれ以上とも言われている対戦料を手に入れたそうですが、現役を引退したあとも新たな収入手段ができたことは、ほかの選手にとっても新たな活路となる可能性があります。スポーツ選手、とりわけボクシングという身体に負担がかかる競技は身体的能力の面で活躍できる期間が限られてきます。ですので、現役引退後に迷走する人もいますが、エキシビションでもそれなりに収入を得られるのなら、競技経験が活きてくることになります。身体的・肉体的絶頂期を過ぎたあとも活躍できる場ができることはとても素晴らしいことです。

少し前に「好きなことで生きる」というコピーがもてはやされたことがありましたが、現実はそれほど甘くありません。例えば自分が得意で好きなスポーツがあろうとも、それを生活の糧にできるのはほんの一握りです。だいたいの人は好きではない仕事を生活の糧にすることになります。

僕は二十代で普通の会社員生活に別れを告げ、30才でラーメン店で独立をしました。そして、悲しいかな43才のときに閉店の憂き目に遭い、それ以降普通の会社員生活とは異なる人生を送ってきました。ですので、普通の人とは少しばかり違った職場経験・社会経験をしているのですが、そうした経験から思うのは、世の中には学歴社会をなんの疑問も持たずに肯定している人たちと、学歴社会に抵抗とまでは言いませんが、学歴にさほど魅力を感じずに人生を送っているいる人たちがいることです。

どちらが幸せかということは、人それぞれ考えがありますので答えはでないと思いますが、日々の生活が送れていればなんの問題もないはずです。もちろん、中には、豪邸に住み高級外車を乗り回し、美女を侍らせて有名なお店で食事をするなど、ほかの人からうらやましがられる生活を目指している人もいるでしょう。反対に、豪勢な暮らしぶりではなくとも、雨が降っても寝るところがあり、普通に食事ができて好きなときにお風呂に入れて、健康に過ごす暮らしで満足する人もいるでしょう。まさに、人それぞれです。

僕は昨年あたりから朝倉未来選手について幾度か書いていますが、朝倉選手の成功ストーリーの軌跡をたどっていますと、いわゆる意識高い系のエリート的発想の人たちと、そうではなく地元で地道に普通に暮らしている人たちの違いについて考えることがあります。

「マイルドヤンキー」という言葉があるのですが、これは8年くらい前に原田曜平さんという広告代理店の方が提唱した言葉です。どういう意味かといいますと、ウィキペディアでは「地元指向が強く、内向的、上昇志向が低い、などの特徴が見られる」とあまりよろしくないイメージとして書いてあります。

この解説では、「地元志向」が「上昇志向が低い」と結びついているように思いますが、果たして「地元志向」は悪いことなのでしょうか。僕はそれが疑問でなりません。みんながみんな地元から出ていってしまっては、それこそ今問題になっている「過疎化」が進むことになります。その点で言いますと、「地元志向」は悪いことではないはずです。

また、「上昇志向が低い」と決めつけていることも差別的発想のように思います。地元を飛び出し都会で働き、さらに海外で活躍することだけが「上昇」だけではありません。地元に残り、「社会に貢献する」などという大仰なことではなく、普通に社会人として働くことも立派な「上昇志向」になり得ます。都会で働いているから、海外で活躍しているから「偉い」ということはありません。

確かに、環境が変わるもしくは広がることで競争相手が増え、それに伴い高い実力が求められ、それが自らの実力アップにもつながることはあります。メジャーリーグで大活躍している大谷翔平さんなどその好例です。しかし、みんなが大谷翔平選手になれるわけではありません。というより、ほとんどの人はそうではありません。

そして、社会は「そうではない」普通の人たちで動いています、回っています。大谷選手が活躍できるのは普通の人たちがお金を払って球場に運び、グッズを購入しているからです。このとき重要なことは、球場に足を運んでいる人たちが誰かの強制ではなく、自らの意志で球場に行っていることです。普通の人たちは球場に行って応援することが幸せなのです。

「幸せ」は人それぞれだからこそ、社会は成り立ちます。

じゃ、また。




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