<喉元過ぎれば熱さを忘れる>

pressココロ上




今年も終戦記念日がやってきました。この時期になりますと、各テレビ局ではさまざまな趣向の終戦記念日特集を放送しています。僕もこの時期になりますと、コラムで戦争について自らの考えを書いていますが、やはり戦争についてはいろいろと思うところがありますので、書きたくなってしまいます。…と書きましたが、実は過去のコラムを遡って確認したところ、なんとここ数年は書いていないことが判明しました。

これには自分でも驚いたのですが、僕は毎年夏のこの時期には戦争の悲惨さについて書いているつもりになっていました。しかし、そうではありませんでした。おそらくかつてほど戦争について考えることがなくなったからでしょう。「戦争の悲惨さ」について強い思い入れがあった頃は、明石家さんまさんが主演を務めた「さとうきび畑の唄」を引き合いに出して戦争の矛盾とか悲惨さについて書いていたように思います。

それがここ数年は書いていなかったのですから、僕の頭の中、または心の中に「平和ボケ」が起きていたのかもしれません。よく人間の持つ特性として「喉元過ぎれば熱さを忘れる」などと言いますが、まさに僕も「熱さ」を持ち続けることができていなかったようです。

今年、その「熱さ」を思い出させたのは、言うまでもなくロシアのウクライナ侵攻です。侵攻したのは2月24日ですが、その日を境に日本は元より世界が変わりました。それにしても100年前ならまだしも、21世紀の現代において力によって境界線を変更しようとする蛮行が行われたのが信じられません。

現実問題として日本はロシアの隣に位置していますので危機感が生ずるのは当然です。ウクライナ侵攻という現実を目の当たりにしますと、「戦争回避のためには外交努力」という発想の無力さを感じずにはいられません。そうした世界的な緊張状態が高まっているときに、いわゆる「ハト派」と言われている岸田さんが首相の座に就いていることの意味は大きいように思っています。

仮に、いわゆる「タカ派」と言われる人が首相に就いていたなら、現在の緊張状態に乗じて「戦争をしやすい国」に一歩踏み出す行動に出た可能性があります。現在の日本は先の戦争の反省もあり、いろいろな面で戦争がしにくい環境になっています。そうした環境を変えようとしていたのが安倍元首相でした。安倍元首相は断じて許せない銃撃事件でお亡くなりになりましたが、保守派の勢力が強い状況は変わっていません。

実は、僕は岸田首相が安倍元首相の葬儀を「国葬」にしたのが、今一つ理解できないでいました。そうした中いろいろな記事から察しますと、結局は「保守派勢力の強さ」に行きつくように思い至りました。僕は政治評論家でも専門家でもありませんので真相はわかりませんが、「保守派勢力の強さ」説はまんざら間違いでもないように感じています。

そうした状況を踏まえますと、元来政治基盤が弱い岸田首相ですので最近の支持率の低下は不安要素です。低下の理由はまさに「国葬」と「旧統一教会」ですが、支持率の低下は「どちらの対応にも疑問を感じている人たち」が多いことを示しています。岸田首相は今回内閣改造を行いましたが、その際の「旧統一教会」との関係性も有耶無耶のままで新閣僚を任命していますし、「国葬」も強行する姿勢を崩していません。この2つの問題は、対応を間違えますと政権の命運を揺るがす方向に発展する可能性もあります。繰り返しますが、岸田首相は基盤が弱いのが現実です。

先ほど戦争の悲惨さに関して「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と書きましたが、それは「ウクライナに対する支援」にもあてはまります。侵攻が起きた当初こそ、支援・サポートの動きが活発でしたが、あれから半年も過ぎた今は「支援疲れ」などという言葉を耳にする機会も増えてきました。この「疲れ」は避難民に対する支援もそうですし、軍事的な面でも起きています。

EUはエネルギー問題が切迫していますので、より「疲れ」を感じることが強いのでしょうが、人間の感情とか感覚ほど当てにならないことはありません。よくよく考えてみますと、地球上ではこれまでに幾度も戦争が起きていますが、その一番の原因は「熱さを忘れた」ことにあります。第一次世界大戦であれほど多くの犠牲者を出したにもかかわらず、第二次世界大戦を起こしています。

そして、終戦後も紛争がなくなったことはありませんし、残虐な行為がなくなったこともありません。人は常に悲惨な状況を生み出しており、そして残虐な行為も行っています。現在ロシアのウクライナ侵攻に注目が集まっていますが、それ以前にもアフガニスタンやガザ地区では弱い立場の人たちが悲惨な目に遭っていました。単にそうした惨状に注目が向かなかっただけです。悲しいかな、それが現実です。

ですが、そうした人間の持つ暴力性をなんとか修正しようと試みているのも人間です。成功しているとは言えませんが、平和な世界を作り出そうとする活動をしているのも事実です。その際に最も重要なことは正確な情報の収集です。

「熱さ忘れず」のためには、常に現実を伝えること、そしてその情報から目を逸らさないことが大切です。ウクライナの大統領夫人がロシアの人たちに「ロシアが犯している蛮行を見て見ぬふりをしないで」と訴えていましたが、プーチン大統領の悪行を許している責任の一端がロシアの人々にあるのも事実です。

大統領夫人は「蛮行に目を向けるよりも、自宅でコーヒーを飲んでいるほうが楽だから」と批判していましたが、なにも行動を起こさないことはプーチン大統領の悪行をロシアの人々は許している、認めていることになります。

僕は大統領夫人の批判に賛成ですが、僕がそう思っているのは、一応はロシアにも選挙制度があるからです。さらに、また「一応」と前置きをする必要がありますが、野党も存在しています。「一応」と前置きをしたのは、野党の党首が収監されている現実があるからで、西側に住む僕からしますと健全とは思えませんが、選挙制度があり野党が存在していますので、ロシアの人々にも責任があると思っています。

もし、ロシア国民が本気でウクライナ侵攻をやめたいならウクライナ侵攻も収まるのではないでしょうか。しかし、以前はロシア政府に対する世界的な批判をロシア国民に伝えようとする動きが見られましたが、最近はそうした動きが見られなくなっています。締め付けが厳しくなっているようです。

世界の注目がウクライナに集まっていますので、つい忘れがちですがミャンマーでの軍事クーデターも民主主義を蔑ろにする行為です。ミャンマーの場合は、ロシアと違い国民に責任はなく、それどころか国民は被害者です。軍事独裁とは国内における軍事侵攻と同じことですから、ウクライナと同じ状況です。先日はアウンサンスーチー氏の側近が処刑されるという報道がありましたが、世界はミャンマーを見殺しにしてはいけません。

人間は直接的な被害が自分の身に起きない場合、どうしても鈍感になる傾向があります。「熱さ」を忘れがちになります。しかし、長い目で見るなら、「熱さ」を忘れた代償は必ずまわりまわって自らの実にも降りかかってきます。そうした事態にならないためには、日ごろから正確な情報に接し、どんなに不都合な情報であろうとも受け入れ、考えることが必要です。

民主主義は個人個人の行動で成り立っていることを忘れてはいけないのです。

じゃ、また。




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