<ウクライナ2・国家>

pressココロ上




先週、ウクライナがロシアから侵攻を受けていることに関してコラムを書きました。ロシアの蛮行があまりに許せなかったからですが、実はその後に、その内容について自分の中で疑問が湧いてきていました。それはコラムの後半に「無駄死にを減らすために、早めに降伏することの必要性」を書いたことに対してです。疑問を感じるようになった理由は、ウクライナの抵抗がそれなりに効果を上げているからです。そして、その背景に国民の「国家を守る」という強い意識があることが伝えられていたからです。

僕は日本の特攻隊の「無駄死に」を引き合いに出して、ウクライナの方々の抵抗もロシアとの兵力が10倍も違うことから同じ光景を思い浮かべたのでした。しかし、日本とウクライナの違いは国民の戦争に対する気持ちです。終戦間際の日本は自らの意志というよりは、国からの命令によるところが大きく、「断れずに」という側面が強かったように思います。

それに対して、ウクライナで戦闘に赴いている方々は「国家を守るため」という高邁な理念により臨んでいます。そこには「無駄死に」などという悲観的な発想は微塵も感じられず、「無駄死に」どころか、「誇り」を持って命を投げ出しているようにさえ見えます。ですので、僕は自分のコラムがいささか的外れのような気がしてきたのでした。

僕が当時の日本の戦いが「無駄死に」と思う最大の理由は、当時すでに多くの国民が戦争を望んでいなかったからです。自らの意志ではないにもかかわらず、国家という共同体に命令されて、仕方なく戦っている姿が「無駄死に」という言葉になりました。

戦後、戦争を総括するときによく出てくるのが山本七平さんの「空気の研究」です。若い頃に興味を持ち読もうと試みたことがありますが、難しくて途中で挫折した記憶があります。ですが、題名から察するところ、「本心・本音を表に出せない空気」ではないか、と勝手に想像しています。つまり、先の戦争中も自らは「戦争反対」と思っていても、周りの雰囲気から本音を言えない状況が「無駄死に」を増やしたように思っています。

僕は毎年8月の終戦記念日近くになりますと、明石家さんまさん主演の「さとうきび畑の唄」という反戦ドラマについて書いています。さんまさん演じる主人公が最後に叫ぶ声が記憶に刻み込まれています。

「わいは、人を殺すために生まれてきたんや、ないんや」

戦争は人間同士が殺しあう行為ですが、忘れていけないのはたとえ自衛のためであろうとも「殺される」ばかりでなく「殺す」という行為もあることです。正確な日にちは忘れましたが、昨年の秋口くらいに興味深い記事を読みました。その記事は従軍経験のあるご老人の方々が自らの戦争体験を語っている記事だったのですが、そこに出てきたご老人の方々が口々に、「おれは銃で敵軍の兵士を撃ったことは一度もない。いつも人のいないところを狙っていた」と笑いながら話していました。

平和な日本の今の状況だからこそ話せる内容ですが、やはり「人を殺す」という行為は簡単にできることではありません。しかし、ウクライナの人たちは自らの死のリスクも負いながら、戦闘行為に身を投じています。繰り返しになりますが、そこには愛国心以外になにもありません。

そこで、僕は考えます。いったい「国家」ってなんだろう。自分が知らない言葉を初めて読んで感動をしますと衝撃を受けるものですが、僕の中にはベスト3の言葉があります。そのうちの一つがこれです。

「イデオロギー100年 民族1000年 宗教永遠」

この言葉に出会ったのは30年くらい前だと思いますが、ちょうどソ連が崩壊したあとでしたので、まさにイデオロギー100年でした。僕は歴史に詳しいわけではありませんので「民族1000年」はわかりませんが、宗教による対立はずっと昔から現在まで続いていますので「宗教永遠」は正しいように思います。

ここに「国家」がないのです。そうりなりますと、やはり「国家」ってなんだろ、と思うわけです。愛国心の強い方々は、僕からすると曖昧な観念である「国家」のために戦っていることになります。このように考えていきますと、ウクライナで戦争に参加する人々は「国家」のためという「愛国心」が戦うための理由ではなく、自分たちの領土に侵入してきたからそれを守るために戦っている、と考えると合点がいくように思います。

それまで平穏に暮らしていた市民の生活が破壊されたのですから、それを守るために戦うのは当然です。「愛国心」というかしこまった言葉を使ってしまいますと、きな臭い感じが出てきてしまいます。いつの時代も「きな臭い」雰囲気は社会を暗雲とさせますが、仮に戦争に勝利したとしても、負けた側をあまりに追い込みすぎてしまいますと、その反動として悪い作用を生み出します。

僕の拙い歴史観では、ヒトラーが生まれたのは第一次大戦で莫大な賠償金を課せられたからです。ドイツ国民の心の奥底に戦勝国に対する恨みが積み重なっていたからです。同じように、今回プーチン大統領が行動を起こしたのも、ソ連が崩壊したことと、その後西側から軽んじられたことが心中の奥底に漂っているように思えて仕方ありません。先進国首脳会議にオブザーバーとして参加しなければいけなかったのは屈辱だったことでしょう。簡単に言ってしまいますと、「侮辱された」と思っていたことです。

ゴルバチョフ元大統領は冷戦を集結させたという意味では、歴史に名を残した政治家ですが、ロシアの人々の間では見方が異なるようです。西側諸国で暮らしている僕からしますと、ゴルバチョフ氏は共産主義の停滞した社会を活性化させようとした改革派というイメージがありますが、ロシアの中での評価は今一つの感があります。

その理由はソ連を崩壊させた張本人と考えられているからです。しかし、それまでのソ連は政治にしろ経済にしろ実際の姿を公開していませんでした。その行き詰まりをわかっていたからこそ、ゴルバチョフ元大統領はペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)を断行したのではないでしょうか。西側にいる僕が言ってもロシアの方々の心には伝わらないと思いますが…。

プーチン大統領は侵攻をやめる気配が全くしませんが、ウクライナも抵抗をやめる気配がありません。昨日は、原発への攻撃も伝えられましたが、もし原発が爆発することがありますと、ウクライナだけの問題ではなく欧州やロシア自身にも被害が及ぶはずです。そうしたことが予想できるからこそ、核爆弾は持っているだけで使用しないことが暗黙の了解になっていました。その暗黙の了解が破られそうな気配がしないでもないことは恐怖でしかありません。

冒頭でウクライナは「早めに降伏することも一つの選択肢」と書きましたが、降伏してしまいますと、それはそれで悲惨な生活が待っているのも事実です。今回のロシアの侵攻に際して、かつて世界を覆っていた植民地時代について幾つかの記事を読みました。そこに書かれていた、ヨーロッパの国々が我先にと植民地を支配下においていく様はまさに弱肉強食の様を呈していました。強いものが弱いものを支配下に置き、搾取する構図です。

そうしたことを思うとき、プーチン大統領が今回起こしている侵攻も歴史の必然と思えなくもありません。しかし、今は2022年です。過去に学ばないでどのようにして人類は生き延びていくのでしょう。それにしても、ロシアにはプーチン大統領をとめるだれかがいないのでしょうか。それを願うばかりです。

じゃ、また。




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