オリンピックたけなわの今日この頃ですが、日程の半分くらいが終わった現段階で、僕が一番印象に残っているのは、柔道女子の阿部詩選手の号泣です。会場中に響きわたるほどの泣き声でしたが、金メダルに対する強い思い入れの裏返しのように感じ、悔しさが伝わってきました。SNSなどでは批判的な意見もあるようですが、僕は勝利に対する「純粋さ」を感じました。おそらく普通の人にはわからない強烈なプレッシャーを感じていたはずです。
あれだけの号泣でしたので、ほかの選手や試合への悪影響を考えますとブーイングが起きても不思議ではありません。ですが、会場からは非難どころか「ウタコール」が沸き起こりました。日本人ではない外国の方々が「ウータ、ウータ」と声援を送っている光景は、日本人としては、やはりうれしいものがあります。
また、阿部選手の連覇を阻んだウズベキスタンの選手は、阿部選手を負かしたにもかかわらず、「阿部選手を尊敬している」とインタビューで答えていました。この選手は、最後まで勝ち進み金メダルを獲得しています。フロックではない実力の持ち主でありながら、リスペクトの思いを口にする姿は、やはり感動です。スポーツはこうでなくっちゃ。お互いのリスペクトがあってこそ、スポーツの素晴らしさが見ている人に伝わります。
阿部選手の号泣を見て、僕は2016年リオデジャネイロ五輪レスリングでの吉田沙保里選手の姿を思い出しました。僕の記憶の中では、阿部選手ほどではありませんでしたが、吉田選手も負けが決まった瞬間に泣いていたように思います。霊長類最強女子とまで言われていた吉田選手が決勝戦で敗れたのですが、そのときの相手選手の振る舞いも忘れられません。米国の選手でしたが、本来なら吉田選手を破って金メダルを獲得したのですから大喜びをしてもいいはずです。しかし、その選手は号泣している吉田選手につきあうように泣いていたのです。心優しき柔道選手です。
吉田選手の場合は競技場よりも、観客席にいたお母様のところまで行き、互いを抱きしめた姿のほうが強く印象に残っています。お母様と抱き合いながら「お父ちゃんに怒られるー!」と泣き叫んでいました。お父様は2年前にご病気でお亡くなりになっていたからです。
ほかの競技に目を移しますと、スケートボードに興味を持ちました。スケートボードは前回から導入された競技ですが、男女ともに日本人が金メダルを獲得しています。この競技がほかの競技と異なるのは選手の年齢が極端に若いことです。女子ストリートで金メダルを獲得した吉沢恋さんはなんと14歳です。
14歳で思い出すのは、1992年バルセロナ五輪の競泳女子平泳ぎ200メートルで金メダルを獲得した岩崎恭子さんです。岩崎さんも14歳で金メダルを獲得したのですが、「今まで生きてきた中で、一番幸せです」はマスコミの格好の的になりました。その後、インタビューなどでは、若くしてマスコミから注目された後悔を語っていますが、14歳で世間から注目されることの苦悩はあまりに大きなものがあるようです。
その意味で言いますと、スケートボードで金メダルを獲得した吉沢さんはマスコミ対応をうまくこなしている感があります。14歳とは思えないほど大人の対応でした。周りのコーチなど指導者のアドバイスがあったのかもしれませんが、それを差し引いても金メダリストとしてふさわしいマスコミへの受け答えだったように思います。
先ほど「指導者のアドバイス」と書きましたが、スケートボード界隈がほかの競技と違う印象を受けていたのは、指導者の選手に対する接し方です。一般社会では、14歳はまだ子どもの年齢です。そして、一般社会、特に学校では先生という大人は生徒に対して強制する指導法が主流を占めています。
令和の今の時代でもそういった指導法をとっている教師・先生がいます。ときたまニュースで報じられることがありますが、スポーツの世界では特にそうした傾向が強いように思います。僕が小中高を過ごした昭和の時代はそうした傾向がもっと強かったのですが、スポ根(スポーツ根性)ものが人気を集めていたことも関係していたのかもしれません。
僕は高校時代バレー部で活躍(?)していたのですが、強豪校の中には試合のタイム中に生徒の頬を平手でたたく監督もいました。そうした高校の先生・監督はまるで「王様」「独裁者」です。口答えは一切できず、生徒は言われるがままに従うしか術はありません。たとえ先生が間違ったことを言ったとしても同様です。そのような高校に行かなくてよかった、と心の底から思っていました。
「監督が怒ってはいけない大会」というのをご存じでしょうか。女子バレーボール元日本代表の益子直美さんが設立した大会なのですが、文字通り「監督が怒ってはいけない」のがルールです。益子さんがこの大会を設立した理由は、自分自身が「いつも監督の目を恐れて萎縮し、自分で考えてプレーできなかった」からです。バレーに限らずスポーツは指導者が満足するためにするものではなく、選手自身が納得、満足するために身体を動かすものです。
どのようなスポーツであろうと、どれほど強かろうと、「王様」「独裁者」に指導されて強くなった選手は不幸です。なぜなら、自分の力で強くなったわけではないからです。言うなれば、科学者に作られたロボットのような存在です。ロボットが金メダルを獲得しても、幸福感、満足感、優越感を得られるのはロボットではなく、ロボットを作った科学者のほうです。
その視点で考えるなら、科学が発達した今の時代のスポーツの優劣は選手の実力ではない、と見ることもできます。学歴社会と同じです。よくマスコミなどで東大生の親の所得が報じられることがありますが、ほとんどの親は高所得者です。小さい頃から名のある塾に通い、勉強漬けの生活ができる家庭環境にいる子供が高学歴を獲得することができます。
スポーツの世界でも同じことがあてはまります。貧しい国の選手では高度な練習器具を使うことはできません。豊かな国の選手は高度な器具・機械を使って効率的な練習方法を行うことができます。同じ才能の持ち主であったなら、豊かな国の選手のほうが圧倒的に有利です。意地の悪い見方をするなら、豊かな国の選手は合法的に「ドーピング」を行っていると考えることもできます。
僕は宮藤さんのラジオ番組を毎週聴いているとたびたび書いていますが、あと一つ毎週聴いている番組があります。武田砂鉄さんという方の番組ですが、武田さんはラジオ番組ではよく声を聴く方です。政治的な発言もする方ですが、その武田さんが先日、「オリンピックでは国旗を揚げないほうがよい」と話していました。
調べたところ、1952年~72年までIOC会長を務めていたブランデージさんという方が「国家国旗を廃止する」案を提示し、議論が行われたことがあるそうです。しかし、必要な賛成数を得ることができず現在に至っているのですが、国家のためにスポーツをしているわけではないのですから、「国家国旗を廃止する」案は正論のように思います。
スポーツの世界において、国家国旗が重要な意味を持つのは「王様」や「独裁者」の立場にいる人たちです。過去の歴史を振り返ってみても、国家を一つにまとめるのに最適なツールです。オリンピックを平和の祭典とし、「政治と競技は別に考えるべき」というのなら、「国家国旗を廃止する」は意味のある案です。おそらくこの案で最も困るのは「王様」であり「独裁者」でしょう。大衆を扇動するツールがなくなるのですから。
「王様」や「独裁者」に利用される選手もかわいそうともいえますが、そもそも、本当にスポーツマンシップを身に着けているなら、「他国の侵略」に与しないはずです。
じゃ、また。